Talk Session
本トークは、多摩美術大学大学院情報デザイン領域による研究制作展「Vertex」にあわせて開催されたもので、展示を手がかりに登壇者がそれぞれの立場から制作と展示の条件について議論しました。
メディアが「特別なもの」から「当たり前のもの」へと変化していく現在、作品は何によって成立しているのか。展覧会という形式はどのような制約と可能性を持つのか。また、「優秀さ」と「逸脱性」はどのように両立しうるのか。本トークでは、こうした問いを軸に、制作の現場における具体的な実感を交えながら議論が展開されています。
さらに、作品をつくるとは何か、自由とはどのように成立するのか、そして「名乗ること」「見せること」に伴う恥じらいと責任といった、制作の根本に関わる問題にも踏み込んでいます。
本アーカイブは、作品の解説にとどまらず、制作の前提や態度そのものを考えるための手がかりとして読むことができます。
登壇者:長谷川新(インディペンデントキュレーター/WORKS_HOP管理人)、笹岡由梨子(現代美術家)、大岩雄典(美術家)モデレーター:渋谷和史、高口聖菜
イントロダクション
高口:
皆様、本日はご来場いただきありがとうございます。本日モデレーターを務めます、メディア芸術コース修士1年の高口聖菜です。
渋谷:
修士2年の渋谷和史です。どうぞよろしくお願いいたします。
高口:
まず、簡単に本展についてご紹介いたします。本展「Vertex」は、個々の作品や作家をそれぞれ独立した存在として捉えるだけでなく、それらが集い、接続することで立ち上がる「関係性」や「構造そのもの」に注目してみようという展示です。タイトルの「Vertex(頂点・節点)」は、点としての固有性を保ちながら、他者や環境との関係のなかで面や構造へと展開していく生成の起点を意味しています。本日のトークでは、こうした展示のあり方を手がかりに、異なる専門領域でご活躍されているゲストの皆様とともに、作品や展示空間がどのように関係を結び、どのような読みが可能なのかを多角的に考えていきたいと思います。それでは、ゲストの皆様をご紹介いたします。
高口:
まず、インディペンデントキュレーターであり、WORKS_HOP管理人でもある長谷川新さんです。
長谷川:
お願いします。
高口:
現代美術家の笹岡由梨子さんです。
笹岡:
よろしくお願いします。
高口:
美術家の大岩雄典さんです。
大岩:
よろしくお願いします。
高口:
今回のトークでは、単なる作品解説にとどまらず、現代のメディア表現がどのような制度的・身体的な条件のもとで生まれているのか、そして今回の「研究制作展」という形式が、それらをどのように可視化し、接続しているのかという観点から議論を深めていければと考えております。学生による実践が、社会や技術とどのような距離を結び、あるいはそこから逸脱しようとしているのか。そうした視点も含めてお話しいただければと思います。
長谷川新|メディアの「透明化」と展覧会の不自由さ
高口:
お一人ずつ、本展をご覧いただいた印象や読み解きをお聞きしたいです。長谷川新さん、お願いいたします!
長谷川:
よろしくお願いします。長谷川新といいます。特定の美術館やアートセンターに所属せず活動する「インディペンデントキュレーター」を始めて13年目になります。この仕事をしていると、定期的にいわゆる「卒展」や「修了展」に呼ばれる機会があるのですが、すごくよく覚えているのが13年前のことです。皆さんがまだ小学生くらいの頃は、会場にiPhoneやiPadがあるだけで「なぜこのデバイスなのか」という議論が起きていました。 それが2015〜16年頃、つまり10年くらい前にはもう誰も言わなくなった。iPhoneやiPadが「特別なデバイス」という立場から、「普通の文房具一般」まで降りてきた、ということだと思うんですよね。
かつてはVR作品であれば、「VRであることの必然性」といった問いが鑑賞の妨げにすらなっていた。メディアがまだ「透明」になっていなかったんです。でも今回観て、いよいよ個人差はあれどメディアが透明になってきた、VRがあっても自然に受け取れるようになったな、というのが最初の感想でした。 そのうえで思ったのは、「展覧会会場で見せる」という条件についてです。皆さんが一番悩んだのはここなんじゃないでしょうか。僕は展覧会を作ることが仕事ですし、大好きです。アーティストから「なぜ作品を作らないのか」と聞かれることもありますが、僕は「展覧会」という形式について考え、実行することに喜びを感じる人間なんですね。 さきほど個別にも話しましたが、この中には「展覧会じゃなくてもいい人」、あるいは「展覧会じゃない伝え方のほうが向いている人」もいると思うんです。だから、もし今回あまり上手くいかなかったと凹んでいる人がいても、それは能力とは別に「自分の表現が展覧会という形式に合っているのか」という問いを持っていてもいい。
でも、逆の面白さもあります。入ってすぐ左のふゆやまもゆさんの作品ですが、事前に映像のリンクを共有してもらってMacBookで観ていたんです。けれど、実際に会場に来て、呉座や畳のようなものの上で靴を脱いで観るのとでは、鑑賞体験としてやっぱり「違う」と言い切りたい。目の高さ、座る姿勢、靴を脱ぐという行為……この「ちょっとした差異」を徹底的に考えるのが、展覧会を作る面白さなんです。 プロジェクターだからこそ出せる質感とか、不自由な打ちっぱなしのコンクリート壁だからこその見せ方を考える。それは「言い訳」にするのではなく、展覧会という体験そのものなんですね。
今はデジタルや論文など、見せる手段はいくらでもあります。でも今回は大学の規定によって「展覧会」という形式に強く縛り付けられている。その「ぎこちなさ」の中で、自分がこの形式に合うのか合わないのか、それぞれがどう考えたのか。皆さんが現代美術の流行とは別のところで、独自のルートを試そうとしている。そんな不思議な経験をさせてもらいました。
笹岡由梨子|「ボケ」の不在と変態性の抽出
高口:
笹岡由梨子さん、お願いいたします!
笹岡:
はい。今は関西や香港をベースに活動しています、笹岡由梨子です。今回呼ばれたのは、事前の打ち合わせで学生の皆さんが、私の制作風景を「楽しそうやな」と思ってくれたのがきっかけだそうで、嬉しい話ですね(笑)。 展示を観て思ったのは、みんな「優秀やな」ということです。でも、優秀すぎて逆に心配になるというか。グラフの五角形が全部埋まっているような優等生が多い。展覧会に「狂人」がひとりもいない。それが今の院生の空気感なのか、世代的なものなのかはわかりませんが……。
みんな、絶対どこか「おかしい」と思うねん。等身大の変態性を持ってるはず。でも、そこをちょっと「理詰め」とか「リサーチ」で埋めて、綺麗に覆ってしまっている感じがする。私が見たいのは、人間の……うーん、ボケとツッコミで言うたら「ボケ」の方なんですよ。意味わからんけど、どうしてもこれがやりたかったんやな、という謎のパワー。ヘンリー・ダーガーのような切実なエネルギー。そういうものに惹かれるし、自分の作品もそこから来ているから、変態性を恥ずかしがったり怖がったりしなくていいのにな、と思いました。
好みでいうと、亀井里咲さんの作品は着眼点が独特で、良い意味で「等身大」を感じました。私は特殊な趣味嗜好で作品を観てしまうタイプなので、亀井さんにはもっと「気持ち悪さ」を追求してほしいと思いましたね。クオリティを上げるんじゃなくて、自分の変態性を抽出してみる。過激であればいいわけじゃなくて、「えも言えぬ何か」、呪物のようなものを求めてしまうんです。 もうひとつ気になったのは、高口聖菜さんの作品。これ、優等生すぎるなあ。作品は「怒ってる」やん。もっと怒っていいと思う。キレ泣きするくらい暴れていいと思うけど、理詰めで喋りながら怒っている感じがして、叫びが届きにくい。解放してほしい。理詰めとかいらんねん!
高口:
(焦る)
笹岡:
文章やステートメントもいろいろ書いてるけど、もっと個人的なことが大事な気がする。「誰々が嫌い」とか、そんな理由でもいい。大きな社会問題に触れなくてもいいから、個人的なところから開いていってほしい。もっと暴れていいと思う! そんな感じでした。
大岩雄典|自由の条件とメディウムの不透明さ
高口:
大岩雄典さん、お願いいたします!
大岩:
はい。僕は埼玉出身なので、今の笹岡さんの話でいうと「ツッコミ」が多い環境で育ちました。大岩といいます、美術家です。インスタレーションを専門にしていますが、制作していると不思議な心地になるんです。セラミックなら触っているうちに形ができるけれど、インスタレーションは現場まで何もできない。「現場でできた」という感覚が強い。一体何を作っている芸術なんだろうな、というのは僕自身のずっと消えないテーマです。 多摩美でも非常勤講師をしていますが、教員的な視点でいうと「物ができるための条件」を考えてしまう。学生がひとりひとり作品を作る際、「どうやったら”作った”と言えるのか」は心配事でもあるんです。
それを少し抽象的にいうと、「自由ってなんだろう」ということ。自由がないと「決まったことをやっているだけ」で、作っている感じがしない。自由なところから何かを生み出さないと「自分が作った」という実感は持てないはずです。 さきほど長谷川さんが言った「メディアの透明化」は面白い視点です。僕はど直球の美術批評史をフィールドにしていますが、メディア(メディウム)とは本来、ベタベタして不透明で、何ができるか分からない「絵の具の塊」のようなものです。僕は「不透明であること」こそが自由だと思っている。何ができるか分からないから、ごちゃごちゃしているけどやりがいがある。でも、それが透明になって「iPadがあって当たり前」という状況になると、逆に自由の選択肢は減っていくのかもしれない。
一方で長谷川さんが「展覧会をどう作ったか」を重視していたのは、考えるべきウェイトが展覧会そのものに移ってきているということですよね。インスタレーションの側からすれば、空間そのものがメディア(メディウム)であり、ごちゃごちゃすることと人に見せることが一致する芸術です。 今回、FU RUIさんの写真作品を見て、タルボットの『自然の鉛筆』を思い出しました。自然を撮るときに、どうして写真に撮りたくなったのか。「写真を撮る」という行為が自分にできることだという触感、肌感がないと、人は写真を撮らないと思う。ふゆやまもゆさんの作品でも、ヒゲが揺れるのはアニメーションだからこそ自然にできる「自由」ですよね。 そうやって、それぞれのメディアで「何かができる」という感触を、今回の展示作品からどう感じ取れるか。そこが僕は気になりました。
クロストーク
渋谷:
ありがとうございます。ここからクロストークに入りたいのですが……笹岡さんの「狂気がない」という話、強烈に刺さりました。以前自分が新宿で展示した時も、「頭はいいけど新宿の通行人を見ている方が面白い」と言われたことがあって。
笹岡:
すごいなあ、その人。
渋谷:
大岩さんの言う「自由」や、笹岡さんの「楽しく作る」ことにどう接続すればいいのか……。
笹岡:
大岩さんは、変態ですよね絶対。種類の違う怖さを感じる。
長谷川:
異常者であることは論を俟たないですよね、うん。
渋谷:
……僕らが自由に楽しく作っていくには、どうすればいいんでしょう。
長谷川:
仮説を物理的な世界で実現する喜び。メディアアートにはそれがあるし、肯定されるべきです。ただ、それはどこまで行ってもそれ以上にはならないという限界もある。異常者たちの前では劣等感を抱くかもしれないけれど、その「確かめる喜び」だけは手放さないでほしい。
笹岡:
うん、でももっと奥底の欲望を隠しているように見える。見られたくない部分こそ見たい。
大岩:
でも、渋谷さんのあの「8つの四角を書いて説明する構造」なんて、十分さらけ出しているし異常ですよ。
長谷川:
逆にあれを作品として出せていること、怖くないですか?(笑)
笹岡:
見たいものの違いかなあ。もう少し「人間臭さ」というか、クサさ、匂い立ってほしい。
長谷川:
無臭の怖さは?大岩くんみたいな「無菌室という異常性」ね。
大岩:
ちょっと話を迂回させますが、「研究制作展」という名前について。最近は「リサーチベースド」という言葉が、お互いの根拠をもたれかからせる「エクスキューズ(言い訳)」になっている気がします。
笹岡:
要約すると「意味あるよ」ってことでしょ?
長谷川:
「外側に閉じてないよ」という保証というか。
大岩:
「でも、意味が伝わらないと辛いのも事実。特に制作展では、作ったことの意味が伝わらないと、動機も自由も無くなってしまうのではないか。
笹岡:
なるほど。……皆さんは作家になりたいんですか? 就職しちゃうの?
渋谷:
就職しつつ、気持ちとしては作品を作りたいです。
大岩:
作家じゃなくても、人は物を作るし、そこで自分が「作れた」という実感は一生大事なはずです。
長谷川:
肩書きって非常に大事だと思うんです。僕も「インディペンデントキュレーター」と名乗り出した時の恥ずかしさはすごかった。「ハイパーマルチメディアクリエイター」くらい胡散臭いでしょう(笑)。でも名乗ることは決意表明で、名乗ってしまったからにはやるしかない。
笹岡:
私は「現代美術家」と固定しています。メディアアーティストと書かれることもあるけど、メディアをやってるつもりはないから。
大岩:
僕は「美術家」です。アーティストは広すぎるし、僕は美術のこと以外よく分からないから、素朴に選びました。
笹岡:
そういえばお二人(学生)も肩書きがありましたよね。高口さんの「仮設的メディアプラクティショナー」……?
胡散くさ! 「仮設的」って何やねん(笑)。
高口:
粉川哲夫さんの「自由ラジオ」を参照していて……常設ではない「仮設的」であることのオルタナティブな形として……。
長谷川:
その名前じゃ業務委託契約結びづらいよ(笑)。
笹岡:
仕事頼みにくい(笑)! 他の名乗り方も考えてみてもいいかもしれないね!
長谷川:
僕は「WORKS_HOP管理人」という肩書きも持っています。ワークショップという言葉が固定観念で縛られて「夏休みの課題」みたいになっているのが嫌で半年くらい悩んだけど、最終的にあえてこの言葉を引き受けることにした。名乗ることでなし得るものがあれば、新しくてもいい。大事なのは、言い訳としての肩書きではなく、自由の条件として肩書きを作れるか。
大岩:
名乗りの恥じらいというのは絶対にある。この「照れ」というのは、性格の問題じゃなくて、作品を作ることや展示することに付随する「芸術のメディウム(媒介)」そのものだと思うんです。照れが通じないと、表現は透明化してしまう。
長谷川:
本当に恥ずかしい。たとえば文章を書くときには最初の2行が書けないと全く書けない。究極的に無根拠ななかで何かをでっち上げて「やるんだ」と自分を乗せられる瞬間が来ないと。
渋谷:
「照れ」や「自信のなさ」の話……僕もAIを扱っていて、サム・アルトマン(OpenAI CEO)を前にして自分が何を言っても世界は止まらない、という無力感がある。今の厳しい世界に対して、美術で立ち向かえるのか? と思ったりします。
笹岡:
立ち向かわなくていいと思う。隣で困っている人に手を差し伸べる、自分の責任を持てる範囲で責任を取る。それが平和への第一歩であり、声を挙げるということだと思います。
大岩:
政治的であるとは「まず家族と話すことだ」という言葉があります。横にいる人と話すのが一番「照れる」んです。その説明のつかない抵抗こそが芸術の源かもしれない。
笹岡:
吐瀉物を見られているような恥ずかしさは、あって当たり前やし、それを見るのは面白い。
長谷川:
バスケの「ピボットターン」と同じです。持ち場(軸足)はあっても、片足が動いていればどこまでも動ける。やりたいことに閉じこもらず、パスを回せる感覚を忘れないでほしい。
大学の制度の中で「研究制作」として名乗る必要はあるけれど、その時に「でも自分はインディペンデントなんだ」「でもこれは作品なんだ」と言い切れるかどうか。「名乗る・作る・見せる」という、恥ずかしい三連打。これをやるしかない。リサーチを言い訳にせず、やり切る。
大岩:
自信と照れは表裏一体ですから。言葉を照れの予防に使うのではなく、武器にするべきです。
渋谷:
まずはシステムが動くかどうかというゼロイチの恐怖に打ち勝ち、その先へ行けるよう頑張ります。
高口:
なるほど……ありがとうございます!残念ですが、そろそろお時間となります。本日は貴重なお話をありがとうございました!
長谷川:
今回はゲストがバラバラの専門領域でよかったですね。ありがとうございます!
笹岡:
話しやすくて、楽しかったです!ありがとうございました。
大岩:
楽しかったです〜!ありがとうございました。