• うしお鶏は、人格や存在感など、目に見えないものを留めておくための「姿の代わり」となる依代 - 「キャラクター」と、現実におけるあらゆるものが、「キャラクター」性を帯びることの可能性について、継続して思索してきました。

    「モノマネを見る時、はたして誰のことを見ているんでしょうか。モノマネがどんなに下手な場合でもノイズのようにその人以外の存在がよぎり続ける。モノマネは漂っている誰かの特徴に、存在感にとりあえずの形を見出して一旦自分の体に着地させてみる行為だと思います。私たちは誰かの存在感に常に囲まれて過ごし、必要な時はその存在感を目に見える何かに結びつけて過ごしている。ぬいぐるみを誰かの代わりにして過ごしたり、君の持ってるビニール傘を他の物とちゃんと区別できたり、待ち合わせの時に人混みの中から相手を見つけることができたり…(うしお鶏)」

    この作品内に登場する虚構的な存在(=キャラクター)の話を聞こうとするとき、私たちは展示空間に置かれたものと、字幕の語る内容を照らし合わせながら鑑賞をすすめることになります。その照らし合わせによって得られるのは、「今目の前にあって、見えているのは、その場に不在な何かの代わりである」ということです。うしお鶏は、人格や存在感など、目に見えないものに見出される束の間の形に着目し、代わりを与えたそのときに立ち上がる「キャラクター」の不確かさに焦点を当てています。