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透明(にする)

竹久直樹

「メディア」と「コンテンツ」

どんな展覧会を開催するにしても、展示する作品とは別に、広報物など、色々なものを制作せねばならない。
近年、メディアは爆発的な多様化を遂げ、またそれに従って、オリジナルとコピー/リアルとバーチャル/アナログとデジタルなどの境界線がより一層曖昧なものとなっている。
私自身、卒業制作展の広報物を制作するにあたってどのようなものを作るか思案する中で痛感したのは、実のところそれらメディアに優劣や主従関係は全く存在せず、また「何をメディアと心得るか」はその場での定義一つ次第、ということだ。そしてこの状況において一番望ましいのは、多様なメディアを一貫した観点からも語れる状態-つまり、本展のステートメントで述べていた「透明を見る」ことができる状態ではないだろうか。(そして、「透明」を見るためには、全ての制作物を一旦「透明」にする必要がある。)
本展において私たち卒制展実行委員は、DM、ポスター、Webサイト、twitterの公式アカウント、告知用の画像、広告映像、そして図録、アーカイブサイトを制作した。
広報物とは、その展示を広く宣べ伝えるだけでなく、その展覧会がどのような意力の元開催されているかを広く宣べ伝えるべきである、と私たちは(少なくとも私は)考えている。

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「原風景」

作品とは、それ自体と並んで、その作品が制作される過程/背景も見るに値するものだ。更に言えば、そこにはなんらかの悲劇、特殊な環境や性、死など、大きな物語を孕む(語る)必要性は全くない。「普通」な生まれ育ちの元、「画一的」な暮らしをしていても、十二分に良い作品制作はできるはずである。
多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コースの2018年度卒業生が主に制作の拠点としているのは、言わずもがな多摩美術大学の八王子キャンパスである。
キャンパスが存在する八王子市鑓水は、多摩ニュータウンの第16住区に該当する。橋本駅近くのビル群を遠くに望み、区画整理ののち野放しになった草むらと、等間隔に植えられた木と、何が建つのかよくわからない工事現場と、新興住宅地(含:学生とのトラブルの絶えない近隣住民)とが一緒くたになったこの土地が、私たちの制作の原風景を織りなしている。
「大木、宗教施設、場末の三つはニュータウンに存在しない」と述べていたのは哲学者の鷲田清一である。ニュータウンとは本来、「消費的な記号に埋め尽くされ薄っぺらく総中流な地」として、批判的に語られることが多かった。だが、私たちのようにニュータウンで生まれ育ったような世代にとっては、路肩や公園に植えられた外来種の樹木、執拗なまでに舗装された川べり、また国道沿いのマクドナルドや土日にだけ混雑するショッピングモールなどは、むしろ思春期の原体験を支える、「透明」な風景である。
本展の広報物は、こうした原風景-私たちの制作における「透明」を、様々なメディアに貫通させる形をとって展開される。

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「画像」と「お店プリント」

広報物に使われていた、何種類ものぼやっとした風景の写真。言わずもがな、この風景は多摩ニュータウンの第16住区を撮影したものである。
1つのヴィジュアルから色々な広報物を作るに際しては、ヴィジュアルの扱い方のバリエーションがキモであろう。紙に刷った途端「写真」っぽさがどうしても出てしまうし、逆にweb(モニター上)で扱う際は「画像」っぽい。カギ括弧で括られたこれらはいずれも私たちの認識の問題を孕むものであって、何が/どこまでが画像でどこまでが写真 といった、厳密な定義が定まっているわけではない。そのため、この風景の写真が広報物上でどう定着しているかで、メディアの特性を引き出せる(と言うより、それぞれの分をわきまえることができる)と考えた。全ての広報物において今回取った方法とは、一つの広報物に対して「どう原風景の画像を扱うか」を決めておき、各広報物でバリエーションを出すことで、逆張り的にどんな広報物であろうが原風景(の画像自体)を扱い、同時に各広報物がどのようなメディアかも示す、というものであった。
例えば今回制作されたDMは紙なので、印刷する以外に写真を定着させることはできない。だが、それ以前に発生するのは、Adobe Illustrator上でレイアウトを組む作業であり、その際画像を扱う際に行われるのは、Adobeのアプリケーション特有の「埋め込み」というプロセスである。他のPCなどにデータの受け渡しをする際に必要な作業だが、今回のDMでは写真が文字通り「埋め込まれて」いる。また、埋め込まれている写真もいかにも写真っぽく、印画紙での印刷を行なったものだ。不思議なもので、L判サイズで印画紙に印刷した途端、実家にあるアルバムの写真のようにも見えてきたりする。同じ写真でも、何か「透明」なものによって扱い方によってまるっと印象が変わってしまうことがある。印刷所に入稿したのはjpgデータだが…。

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「DTP」と「リバースエンジニアリング」

本展の広報物において一貫しているのは、文字である。
筑紫ゴシックのミディアムかデミボールドを横幅約89%に圧縮、カーニング設定はオプティカル、トラッキングは基本的に140。これは、最初に「スマホの画面で一番見やすく機能する」画像を作った際に決定した文字設定である。本展における全ての広報物の文字は、スマホに最適化された文字組みをコピーペーストでポスターやDMなどに流用し、制作を行なった。
私たちは何か展示広報物のグラフィックなどを制作する際、まずpinterestやinstagramなどを開いて、なんだか良さげなグラフィックを参照したりするし、場合によってはコピーペーストでillustratorに放り込み、リバースエンジニアリング的に制作を行う。それは避けようがなく、全くもって悪いことではない。だが留意せねばならないのは、SNS上で、ハガキサイズのDMと、B0サイズのポスターは全く差異がないということだ。1つの或る展示広報物のグラフィック内で、なぜその文字がそのサイズかということは、パソコンやスマホの画面で見るぶんにはもはやどうでもいい(意識すべきことではない)し、逆に、DTPでの印刷物もそのような無意識の元に制作されてしまう。なぜならこうした広報物は、B0であれハガキであれ元々のサイズではなく、画像が表示される画面と、SNSが規定するフォーマットによって目に見えるサイズが決まる上に、どんな小さな文字も、今では画面を指で拡大すれば読めてしまうからである。

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「現実」と「鑑賞体験」

インターネットによって生活が便利になるということ、それは私たちが現実とインターネットとの境目がぼやけ、メディアが「透明」になるということであり、現実が本来持つ制限がうやむやになることである。

インターネットの発展によって、何もかもが豊かになったかというと、案外そうでもない。インターネットは、ログインして入っていく特別な場所から、電気や水道、ガスなどと同じインフラの一つへとなった。私たちが本来作品をつくる際、これまでは画を描く時間やプログラミングのスキル、画材、また発表する場所が必要であったりと、高いハードルがあった。だが、インターネットがインフラ化することで、写真を撮ってSNSに投稿するだけでも作品になってしまう。そして、そういった作品を現実空間でどのように展示すればいいのか、という問題も常につきまとう。巨大な彫刻作品をインターネット上の記録写真で眺めるのが(実際の作品を眺めるのに比べて)退屈であるように、逆に、インターネット上で成立する作品を現実空間で展示した途端退屈なものになることも多い。
ここで述べたいのは、どちらに優劣があるということではない。鑑賞体験の前提として横たわっている「透明」なもの-それは、現実空間で作品を眺める体験と現実空間にあった作品をインターネット上で眺める体験、またインターネット上の作品をインターネットで眺める体験とインターネット上の作品を現実空間で眺める体験が、それぞれ全く別のものであり、場合によっては別の作品となりうるということだ。作品のアーカイブが必要になった時、様々な理由から作品の展示状態を永久保存することはできず(これは、現実が本来持つ制限の一つである)、何らかの別の方法、場所でアーカイブをするべきだ。かつ、例えば現実空間にあった作品をインターネット上にアーカイブするのと、この本のように図録としてアーカイブするのは目的も手段も全く違い、それぞれに最適な方法があるはずだ。
そして本展の全ての広報物も、現実が本来持つ、様々な制限と向き合いながら制作をしたつもりである。


透明を見ること

荒木久徳(cha-bow)

透明とは目に見えないことだ。塵や埃、反射や屈折などの些細な要素を捉えることで、透明は感じることができる。
これは、透明その物をみているのでは無く、間接的に透明を感じている。
#00000000は黒を透明にしたものだ。モニターが発光せず、素子が見えている状態である。私たちはそれが表示されている時、何も印刷されていない紙を見るのと同じように、モニターの素子そのものを見ている。
透明を見ると言う行為は、間接的に感じることでは無く、私たちが普段気にしない要素、行為、物体を愚直に捉え直すことである。例えば、ここで挙げられているのはモニターを見ると言う行為である。素子は発光し、透明は擬似的に作り出される。あらゆる前提、制約がこのモニターに付随するのは必然であり、本来ならば無視してはならない事象だ。しかし、あまりに当たり前すぎて現在これらは、見過ごされている。
私たちがやらなければならないのは、情報に情報を折り重ねることではなく、今目の前にある状況をできるだけそのまま把握することだ。あらゆる文脈やデータが多層化、複雑化した今だからこそ、あえて最も身近なそれらに、まず目を向けることが必要となるのである。