コンセプト
始まりと終わりがある所謂"物語"の力を軽んじる日々が、僕に、少し昔、しばらく続いていて、いつの間にか解消したが、何時か見た物語をいずれ忘れてしまっていることと同じように、別の機会に違ったかたちで再びわきおこる類いのもので、問題だ、と思ったから解決したい。それから今に至るまで三ヶ月ほどのあいだ多々様々に具体的な経験をしてきたのだが、その途中に問題の解決に役立つと思える二つの出来事があった。
一つは、電車の中で居合わせた塾通い小学生三人組のうちの一人を僕自身そのものと誤解し重ね合わせたこと。
もう一つは、ドライブの帰り道に気まぐれて普段とは別のルートを採るとちょっとした山の中に入り込み、木々と街灯と夜とたまに見下ろせる沈黙した町しかない不穏な道を彷徨い続けた果て、ふと見慣れた風景を確認してしまった後悔から始まる「もう一つ他の似たような世界へ帰ってきてしまったのかもしれない」といった、ドラえもんTV放映『あべこべの星』に登場するような酷似する別の地球へのワープを想像したこと。
ところで‘インスタレーション’の初めの定義へ返ると、鑑賞者が解釈対象として認知するある平面、その枠付け、それがひたすら閉じ込めたある可能性を解放すべく用いられた形式、また脱却行為であった。そのこともまたいずれ忘れてしまわれている場合がある。ある可能性とはなにか、何から脱却しようとしているのか。
誰かが誰かへ物語る。壮大なオカルトファンタジーをインスタレーションは伝えない。はっきりと「さめる」こと。そうして物語は"所謂"を越えて現在時制に息づく裂け目に近づいている。ここで、部屋の中にひとりでいるかぎり世界がどのように傾こう刻々に無関心を続けられるけれど、もうひとつ現実の可能性に気付くことが出来れば、いまきこえる音やみえる形がようやく実となって二つに現れるに違いない。だれもかれも、夢と街に深夜、あれる。