風にセットした髪をあおられた時、困った気持ちになったことを誰しも一度は経験したことがあるだろう。そのような日常的で些細な出来事を誇張して、強い風が吹いた時に髪の毛が舞い上がる様子をデフォルメされた愛らしい女の子で表現した。どんなに外見を取り繕うとも、風にあおられた一瞬で、本当の姿が垣間見えてしまうことがあるだろうと考えた。 この作品は空気を送り込むことで膨らみ、そしてしぼむ。植物も私達と同じように空気を取り込み、放出する。普段は見えないその行為を表現した。 トマトのスライスをモチーフにした作品。トマトをスライスしたときに現れる特徴的な断面の有機的な形状が面白いと感じ、その形を活かしたいと思い制作した。ライトを覗くと積み重ねられたスライスが赤く照らし出され、トマトの持つ有機的で独特な形状の変化を見て楽しむことができる。 旅に出ると絶景を見ることができ、いろんな人々に出会ったり魅力が山ほどある。その楽しさやわくわく感を写真で表現したい。しかし、写真を印刷して額縁にいれるだけでは、なんとなく海外の写真なんだ、だけで終わってしまう。写真に奥行きと光を加えることによって、一枚一枚の写真に対して興味を持ってもらい、ここはどこの国だろう、どんな場所だろうと想像してもらいたい。 光に触るというコンセプトから、鑑賞者と作品がインタラクティヴな関係をもつよう制作。アクリル棒を動かすことにより、棒の両端の光の色が変化する。光を操作する楽しみや、光とアクリルの不思議な関係を発見できる。オブジェとして見せることよりも、使用する素材の特徴を利用し、それを活かした作品である。 人の記憶が一瞬間に思い起こされては、静かに消えていくという記憶としての「想起」を光の波紋によって表現している。それらによって思い起こされる記憶の断片は、鑑賞者の記憶の根底にあるイメージに委ねられている。また鏡面を施した柱の集合体は、街としてのイメージも連想させると同時に、儚く、うつろいやすいという現代のメタファーも内包している。 画面上で様々な新しい顔を簡単に試すことができる、ニューフェイスジェネレーターである。 役者の心情やアクションに合わせてかかる様々なBGM、そんなミュージカルや映画の要素を現実に取り入れたならば?をテーマに制作したモーショントラッキング・プログラム。カメラで捉えた動きに連動してアニメーションと音楽のボリュームが変化する。もしもこのシステムが街の中の人が行き交う道の側にあるとしたら、というヴィジョンを展望している。 Processing とカメラを使った作品である。カメラに映った人の輪郭をProcessing で認識し、雪が降り続ける画面の中に入ると、頭や腕に雪を積もらせる。たまに画面がひっくりかえり、積もった雪が離れていく。あたかも自分がスノードームの中のミニチュアになったかのような感覚を味わうことができる。 男なら一度はたくましいヒゲに憧れたことがあるであろう。しかし、ヒゲの成長速度は遅く自分が思い描いたような長さに達するには莫大な時間を要する。そこでこの「ヒゲシミュレーター」の出番である。カメラの前に立つとそこにはたくましいヒゲをたくわえたあなたの姿が!ヒゲを生やした自分の姿はイケているだろうか?時間と労力を無駄にする前にぜひ「ヒゲシミュレーター」をお試しあれ! 自己から絶えず分離されていく非自己、イメージの亡霊が一挙に視界を侵犯していくその様を描こうとした。スクリーンに張り付いた軌道を使ってコミックのキャラクターのまねをしてほしい。42 の腕がないとお悩みのあなたも千手観音になることができる。 普段見慣れた自分の顔を、ちょっと奇妙な姿に変えてしまうインタラクション作品である。写真がなかったその昔、貴族達は自分達の顔を美化させ、理想の姿を肖像画家に描かせていたという。この作品は、今の便利になった時代における、現代版肖像画である。作品の前にくるとあら不思議、きまぐれな画家があなたの顔を自由気ままに描き出すことができる。どうぞお楽しみあれ。 とある日曜日の台所を、ゲームブックにした。朝起きてから夜眠りにつくまで、その時々の気分に合わせたレシピを用意した。
幼い頃、一人で留守番をしていたとき、よくベッドの下やクローゼットの隙間から誰かが覗いてくる感覚に陥った。その度にベッドに潜ったり、テレビを点けてみたり、気を紛らわせようにも「もしかして私の他に、誰かいる?」という不安は次第に恐怖の妄想へと膨らんでいく。妄想が終わればまた次の妄想が始まる…悪夢のような妄想は永遠と続くのである。 「世界のどこかに、わたしだけの王子様がいる」‥幼い頃に信じていた夢は叶うはずもなく、「わたし」はすっかり成長し、大学2年生になっていた。ただのおとぎ話と分かっていながらも、期待をしながら送る日々。変化のない日常を送っていた「わたし」の身に起きる不思議な一日のお話である。 この授業の作品形態が電子書籍だったため、先が読めない内容にしたかった。たまたまソフトクリームをファーストフード店で見かけて、なんとなくこれでちょっと怖い話が出来ないかと考えた。その日の授業の時にした落書き「ソフトクリーム殺人事件」がもとになっている。イメージは、夕暮れどきに早く帰らないと現れるという怪人赤マントが近い。 本の中に入り込んでしまうような感覚を迷路で表現した。脱出ゲームになっている。独特なキャラクターも同時に楽しめたならばと作った。アメコミをイメージして台詞は英訳にした。 突然目の前に現れた小人のために写真を撮り進めていくゲームブックである。小人と仲良くなりながら話が進んでいく。ページをめくっていけば、あなたもすっかり小人マスターだ。エンディングは9個に分岐していて、終わったら一つ手前に戻ることができる。9通りのエンディングをお楽しみあれ。 その名の通り、プランターをモチーフにしている。土に種を植えることにより、現実ではなく画面に花が咲く。それと同時に音が鳴り、花の息吹を感じられるようになっている。また栄養剤を埋めれば軽やかな音が出て、土を叩けば驚いた虫が音を出して逃げる。これらは現実では感じられないはずの「植物の営み」である。その営みをイメージとして感じられるように表現することを目的に制作した。 日本の伝統的な照明である「提灯」。これをアコーディオンのように左右に伸び縮みさせる楽器に仕立てると面白いのでは?と考えて制作した。また、提灯のカタチ、雰囲気や無段階の伸縮に対しての、電子音や階調的な音程表現によるミスマッチを狙う。階調は単純な半音階ではなく、いくつかのスケールをプログラムしており、直感的な操作で演奏することができる。 テーブルを回転させることによって音を書き換えていく行為は、ものの歴史そのものに似ているであろう。レコード文化は衰退し、その後の媒体も入れ替わり続けた。それに対し、本来レコードを再生するための装置の一部だったターンテーブルは、形は変われど現在でも活躍の場を与えられている。ものの使い方を間違いと決めつけず、そのものを残すためにも新たな可能性を摸索したい。 植物(マドカズラちゃん)と一緒に写真を撮り、ツイッターを介してコミュニケーションをとることができるprocessingアプリ。マドカズラちゃんの今の気持ちを聞いてみよう。マドカズラちゃんからリプライを受け取ろう。マドカズラちゃんをフォローしてみよう。みんなで一緒に写真を撮ってシェアしよう。@mad_kazurachan 植物は人間にとって身近な生き物の一つだが、犬や猫などのようには動かず、感情を表現する手段を持たない。この作品では、そんな植物の生息に必要な光と水の要素の過不足を、感情として表情に変換し、親近感を持たせることでその表現とした。世話をしてあげることで生き生きとした表情を見せてくれる。「バイオリンガル」は植物を愛でるインタラクションのデバイスなのである。 物がみずから出す光とか、それによって照らされた微細光などは周辺が明るい時より闇で取り囲まれた時目にさらに見えるし、その魅力を感じられると思う。私は闇の中での小さな明かりを探したかった。音なしに静かに叫んでいる明りの妙な美しさと光のさまざまな雰囲気を表現した。 トランプには様々な遊び方が存在する。遊びを行う人数だって、その種類によってヴァリエーションを持たせることができる。今回はそのトランプゲームの中で行われる、楽しいという類いの遊びではなく、挑発や策略といったようなポーカーやブラックジャックのような類いのシリアスであり、アダルトな雰囲気のゲームをイメージして撮影した。 ごく自然なことは気にも留めずに通り過ぎていく。それは私達の身体の一部のように生活を形成し、共に生きているというのに。平熱のように、当たり前に。同じ時間を生きているけど、同じ時間は生まれない。それぞれが自分の時間を生きている。同じようでちょっと違う、それぞれの平熱を感じる。 楽しい時、辛い時、そばに居て欲しいと思う人。一人では不完全な状態であるが、大切な二人がプラスされることで私はどんなことも乗り越えられる様な気がする。「大切」という感情を写真にしたい、そんな気持ちを込めて、今回この「plus2」を制作した。 春は心地の良い季節だ。まず光がとても美しい。陽がまんべんなく降り注いで、包み込まれているような感覚がする。そして爽やかな空気、色彩豊かな自然の様子…そんな穏やかな春の日常の情景をおさめるべく写真を撮っていった。「春の陽」を中心に見つめつつ、気持ちの良い空気感をカメラでいかにとらえ、伝えるかに挑戦した作品である。 食べ物を食べる、調理する、触るなどの行為をした時、たくさんのオノマトペが生まれる。その中で「ぷ」のつくものをテーマに食品を撮影、オノマトペの視覚化を目指した。 私が高校生の時の夢。「‥私の目の前の白い羊が私を見つめているの。ニッコリ笑って自分の羊毛を一握り握ってくれてから踊り始めるの。ところで羊毛の色が変わりながら急に消えちゃったの。」 名作と謳われるカルト映画は、往々にして作者の夢からインスピレーションを得て生み出されてきた。実在の役者によって夢を再演するそれは、鑑賞者に夢の追体験を促し、さらにやがて鑑賞者自身の夢を形作るモチーフとなっていく。 私たちの記憶は時としてその形を変え、恐怖として現れる。この夢は、私の中の記憶が混ざり生み出された悪夢でだったが、個々の記憶にはいずれも恐怖の要素はなく、日常で見てきた風景にすぎなかった。私たちの記憶の欠片でさえ、形が変われば面白いものになる可能性を秘めている。 記憶に残る夢というのは喜怒哀楽が明確であることが多い。しかし私の記憶に残る夢の一つにそういった感情が無いものがある。その無の感情を表現しようと、感情を持たないマリオネットのような人形を紙で作った。夢の中の世界は無の感情という冷たい印象とは逆に、温かみのある柔らかい雰囲気に仕上げた。 「果たして自分は、誰かのために命を落とせる人間であるか否か」という問いは普段から考えてきた。夢の中で、「自殺ゲーム」というゲームを持ちかけられた時の動揺を数年たった今でも鮮明に覚えている。夢という仮想の空間ながらも、リアルに感じた恐怖や戸惑いを表現した。 工場という無機質なモチーフが、夢の中に現れることでどこかファンタジックなものへと変化する。ベルトコンベアを流れた素材は、加工をされて別のものへと生まれ変わる。対の関係のものでありながら、実は同じものであるという関係を、夢の舞台の違和感と共に描いた。 見ず知らずの者であるのに、どこか懐かしい。とても愛おしくて、切なくなる。そんな、夢の中で私が体感した、擬似的な家族愛を描いた。私が見たそのおばあさんの夢は、もしかしたら彼女自身が夢見た世界だったのかもしれない。夢の中で出会い、もう二度と会うことはないであろう彼女へ愛を込めて。 「創造すること」を目的として作られたソフトウェアは、同時に「破壊すること」を目的とし、そして「偽り」を生む。私にとってPhotoshopとはその為にあるのではないかと思う。イメージも生き物も無機物もその手で描くままに画面上に表現することができる、まさに「神」そのものにもなり得るソフトウェアをヴィジュアル化した。 少年は、奇妙なおじさんに出会う。おじさんは雨の日も風の日もそこに居て、ひたすらに何かを話している。おじさんに興味を持つあまり、おじさんと共に宇宙へ、そして大きなエネルギーを感じ帰還する。そのとき少年の中にはある変化が生じていた。 人の数だけ物事の見方、印象は違ってくる。そう考えると自分という人間は一人であるが、他人の中にいる自分は、自分の思う自分とは別物で、かつ複数いると思える。しかし全て自分という人間であることも確か。今回自分の身体の部位からキャラクターを制作した。それぞれが個々に存在しているが、全て私であると言える。 ごく自然に存在している動物や植物の生物の命の輝き、また壮大な命のエネルギーを音に合わせて形が変化していくシルエットで表現した。あらゆる生物体の命の素である細胞を模したテクスチャを使用することにより、自然の命のパワーを鮮やかに表現し、第三者の視覚に訴えかけるような作品を目指した。 川や池の中で自由に泳いだり飛び跳ねたりする鯉の姿に力強さと自由さを感じ、飛び跳ねるというテーマでこの「鯉。」を制作した。私達は魚の様に速く泳ぐことも、鳥の様に飛ぶこともできない。しかし、できないからこそ強く憧れてしまうのだろうと思う。 「無機物をキャラクター化する」という課題で制作した半立体作品である。キャラクター化するにあたり、その時一番興味のあった「演劇」をテーマにした。この子の身体はそれぞれ劇場、舞台となっている。華やかな表だけではなく、見えない所も同じように大切な役割を持っているということを表現した。 夜な夜な人の家路はおもしろい。人はひとりでいるとき、空を飛べる。着の身着のままに駆けることもできる。足下のコンクリートを蹴った瞬間に僕は異世界に飛んでしまった。夜空の旅をしていると知ってるような知らないような人々と遭遇する。彼らと時間を忘れて駆ける。ふと気がつくと僕はひとりで朝焼けを見ていた。 社会人になった里実は、どこかパッとしない気持ちのまま、平凡な生活を送っていた。ある日、引っ越しの荷造りをしていると、懐かしい手紙を見つけた。それを読み返してみると‥。海外から帰国してくる恋人を迎えに行く中で見つけた幸せの意味。手紙の中に詰まった思い。何気ない朝や、平凡な街の中で繰り返される人々の生活の大切さ。家族のこと、恋人のこと、そして自分自身のこと。ゆっくり振り返ってみるのもいいかもしれない。 昨年から始まった企画「キッズイルミネーションTAMA」。今回は小学6年生のこどもたち36人と一緒に、多摩中央公園にある池を「キラメキたまご」で飾った。節電対策が叫ばれていた時期に、イルミネーションとどう関わってゆくのかをこどもたちに考えてもらい、ソーラーエネルギーや電力消費の少ないLEDを使いながら、頭を働かせながらも楽しくワークショップを行った。 私は「身体から感じる感覚」ではなく「感覚から変化する身体」を求めている。それは果たして初めて経験するものだろうか、既成観念か、あるいは潜在的なものなのか。衝撃や恐怖、グロテスク、エロティシズム等、身体が反応しやすい感覚に注目し触るという行為なしに、感覚が反応するオブジェを制作した。 境界の曖昧さ。個体の持つ意味の曖昧さ。これは卵なのか何なのか、生き物なのか。その個体がどこまでそれと呼べるものなのか。「生き物」らしきもの、その感覚的気配やエネルギーを表現したいと思った。 Yahoo!から世界の天気情報を取得し、そのひとつひとつを天気を表す色をした丸で表し、また天気と対応した音とともに、地図上に配置していく。しかし、この情報は非常に記号的なものである。実際にはどんな天気が広がっているか分からない。そこのところは、鑑賞者が自ら天気の記憶を引き出してみて欲しい。頭の中で天気の記憶が分厚い層となって存在しているかもしれない。 私たちは絵を描くとき、必ずなんらかの制限を受ける。その制限は、なにかを妨げることもあれば豊かさを生み出すこともある。
この作品は単純な図形でできた模様を連続して描くことで、絵を描く際のはたらきの一部をシミュレートしている。また、鑑賞者はマウスとキーボードでその規則に基づく模様を同じ画面上に描く事ができ、乱数でシミュレートされた模様とのズレを体感することができる。 ほんの小さな光の点滅を確認できない。無機質な物体に意地悪される。そんな状況。 色分けされたキューブを動かすことで、今いる現在地から、周辺の施設までの情報を、インタラクティヴに視覚化した、街頭設置型オンラインマップ。オブジェクトを置いて、ある一定の範囲のみを表示させることで、動かして見える「発見」を大切にした。また、キューブであることにより、オブジェクトを置く「楽しさ」が生まれ、効果音で、自分の居場所を知らせることから、体感的にユーザーが情報を知ることができる。 回転する車輪のスポーク音とタイヤの摩擦音をコンタクトマイクで拾い、増幅させる。合わせて、電球の明暗をプログラム制御し、その姿をシアトリカル(劇場的)に拡張する。ひたすら瞬間的に生産/消滅をくりかえす、「役に立つ」(かけがえられる)ことのないエネルギーの存在、そのものの息吹を私は肯定する。 有名な少年漫画雑誌で漫画を描くということは想像以上にシビアである。雑誌で見かけなくなった漫画家の行方を、当時の読者はどれだけ知っているだろうか。絵を描くことからは長く遠ざかっていた元漫画家が、新米イラストレーターとして再び絵のフィールドで仕事をすることを決意するまでを追ったドキュメンタリー作品。 東京都八王子中町で活躍する芸者衆を追ったドキュメンタリー。「ゆきの恵」という置屋の主である恵さんを中心に、芸者さんの日々の踊り・小唄などのお稽古風景や、白塗りの様子など普段目にできないような部分を観察し、現代の芸者衆の魅力や映像美を追求した。 華やかであり厳しくもある芸者衆の世界を、その目で確かめてもらいたいと思う。 美大生の落書きをまとめ、ドキュメンタリー映像を製作した。いつも何気なく描いている落書き、それらはとても自由で、美大生の脳内をそのまま表しているかのようである。作品を製作する時に悩むこともあるが、何気ない落書きの中に、創ることの本当の楽しさがあるように感じ、色々な学科に通う美大生達にスケッチブックを見せてもらい、多くの取材を行った。 街の中で目にするグラフィティ、スケートボード、耳にするヒップホップ。私にとって、街に溢れるストリートカルチャーは刺激的な存在だ。あるとき、イリーガルではなくリーガルで街にグラフィティを描く活動を知った。それが私の中できっかけとなり、多くのライブペインターとの出会いが生まれた。彼らの描く姿、描く絵は、生きたアートだった。 街中のステア、ハンドレール、ベンチ、オブジェなどでスケートしては、通報されキックアウトされるの繰り返し。しかし、彼らは決してストリートでのスケートをやめない。日々変化する世界中の街で、自分たちを表現するために板の上に乗る。日本のスケート業界の最前線で活躍する伊藤慎一は何を思い、日々スケートボードの上に乗っているのか。この作品をスケートボードの世界の外の人に見てもらいたい。 魔法少女の生活は日常と非日常に著しく分けられる。友人や近所のおばあちゃんとの交流と、怪人カタストロドンとの対決である。毎回毎回、毎週毎週、繰り返し繰り返して、いつのまにか学校や街にカタストロドンが跋扈している。 僕は優れたエンタテインメントを提供したく制作に挑んでいる。僕が幼い頃テレビの中で見た踊りながら軽やかに動き回るキャラクター、見たことない世界や言葉、ヘンな生き物、全てが楽しく新しく、想像力が膨らみ豊かになった。多少ブラックなジョークもありますが、とにかく愉快で明るく前向きで、楽しいものを提供したいと思っている。 あの悲しい日からの日本をイラストレーションで表現。布にプリントしている。私たちの目に見える景色は十分すぎるほどに美しい。見えないところで破壊は続いている。けれども、美しいものは美しい。狂っている。時間が経つにつれ、感覚は麻痺していった。誰かのためでなく、自分のために制作。大切な作品。隠れている可愛い十二支を見つけてほしい。 卑しくて、いやらしい。下品で、汚らしくて、動物的で、湿気を帯びている。湿度と人間の臭い、高カロリーでジャンクな幸せが溢れた部屋の中で、惰眠を貪る幸福感と醜さよ。誰もが感じたことのある皮膚のぬめりや額に張り付く髪の毛、肉の間にまとわりつく下着、滲み出る汗はたまらなく本能的にエロティックである。私たちの日常は、常にほのかな狂気と気持ち悪さに覆われている。 忘れられてゆく安堵をテーマにした。同じ日々を繰り返していても、やはり歳はとるし病気もする。物は古くなり、だんだん人に触れてもらえなくなってゆく。そんな流れを互いに修復し合えればと思った。目を覚ませば誰かが隣にいる安心感を支えてくれたぬいぐるみのように、量産された物がその物でなきゃいけない理由なんて、知らない間に分かっていたようである。 遥か昔から人と人は出会いと別れを繰り返し、新しい命が生まれていくという、当たり前のことすぎるからか普段深く考えることのないこの命のサイクル。淡々と繰り返されているようであっても、そのひとつひとつの出会いの中には温かいドラマがあるということを再認識し、人との出会いの喜び、命が繋がっていくということの素晴らしさを表現した。