-
大工原実里
『共生』
「群れ」をテーマとした作品は、幼虫のような形体をした白い1000個の群生が織りなす独特の世界観を持ったインスタレーションである。作品には44個の小型モーターを内蔵させているが、動きそのものは機械的ではなく、ひとつの振動から派生した幾つもの振動が連動し、その動きが大きな有機的な振動をつくり出していく。この作品の全体の動きは線のようでもあり、面になって動いたかと思えば、立体にも見えてくるというように、予定調和的な動きは一切ない。(教授・三上晴子)
-
佐藤公俊
『Frozen Oscillator Music』
建物の壁に無数のピックアップを接続し、そこから得られる物体音をミックス&プロセスすることで、静謐で彫りの深い音響空間を生成するサウンド・インスタレーション作品。フィードバック・ループを活用したサウンド・アート作品は古くから、それこそ星の数程あるが、ここまで多数のピックアップを使用し、さらにそこからフィードバック感をまったく感じさせない独自の音響空間を生成したことに驚かされる。「凍れる音楽」と呼ばれる建築物から、逆に音楽を生成することで建築を解凍する「逆建築としての音楽」というコンセプトも秀逸である。(教授・久保田晃弘)
-
佐野友紀
『コピーのコピーのオリジナル』
卒制期間でデジタルとアナログの間を思考した3作品を制作した。「距離によって変化する、ものの見え方と人の意識」は2.5m×5.4mの巨大作品でプリントアウト画像の上から油彩を塗り重ねて行く手法で、見る距離によって作品の見え方が変わる作品である。「境界」はデジタルカメラで撮影された画像をなぞるように油絵で着彩され、写真と絵画の境界を横断していく作品で佐藤可士和賞(GEISAI TAIWAN)を受賞した。「コピーのコピーのオリジナル」では陶器の壷に油絵の具で着彩、その模様をデジタルカメラで接写、そのプリントに油絵の具で着彩していくという反復によってオリジナルを消失させていく。(教授・三上晴子)
-
神山翠
『t:lattis』
1分という時間軸を光の動き表現したインタラクティヴ・インスタレーション「t:lattis」は、WEBカメラに映された観客の映像をトリガーに3Mの長さのシリコンチューブによる造形が、まるで「時間の生き物」のように有機的に時を刻んでいく。具体的にはリアルタイムの映像から時間の変化分を検出、その変化に応じてプログラムとサーボが作動、そして光のワイヤーが収縮していく。彼女は過去にも「振り子の周期」や「グーグル・カレンダー」を使った時間をテーマとした作品を制作してきた。(教授・三上晴子)
-
朝倉卓也
『The Three Straw Band』
誰でも弾ける楽器ではなく、あえて演奏するために、十分な練習を必要とする楽器をデザインすることで、人間中心のインターフェイス・デザインを再考し、音楽における練習の意義を再確認するための作品。とはいえ、実際のパフォーマンスは、そういった堅苦しい概念や、小難しい理屈を感じさせるものではなく、3人のバンドマンが、何やらストローのようなオブジェを、ひたすら揺ったり、持ち上げたり、はめ込もうとしながら演奏する、純粋なエンターテイメント作品として気楽に楽しむことができる。(教授・久保田晃弘)
-
吉久真弘
『シー・ポーク』
作者は幼少時代からクジラやイルカに興味をもち、これまでフィギアの制作や絵画作品や数々のインスタレーションを作成してきた。さらに水族館での生態の解体作業などにも携わってきた。
この作品「シー・ポーク」は、海生ほ乳類を愛してやまない作者が、イルカとクジラの補食文化をもつ日本に対し世界から矛先が向けられている現代社会に向けた問いかけである。つがいと子どもたちと思える大小数点のヌイグルミは、実物大のブタくらいの大きさで、海生ほ乳類の身体にブタの頭部がついている。触り心地がよいボディーはカラフルな色彩のフェルト生地で出来ていて愛くるしい。
市販しているキャラクター化された動物のヌイグルミ群と一線を画しているのは、いまにも泳ぎだしそうな流線型の身体のリアルなフォルムである。なんども丁寧に観察しては、繰り返し造型を試みてきた作者の知識や技術の成果が集約して可能となった、この流線系のフォルムが、この作品の魅力であり精度の高さである。
一方で様々な色のフェルトを配したシー・ポーク(ピッグではなく食用肉を指すポーク)のカラフルなボディーは毒々しくもある。それは食べ物になることを自ら拒む生態系の進化の結果と捉えるのも可能かもしれない。
保護するべきか食すべきか、両方とも人間のエゴと論理でくだされる判断にほかならない。シー・ポークの毒々しい色とは、自ら生存を決められない側のささやかな抵抗のための進化なのだろうか。ウィットに富んだ作者の問いかけは多元的である。(准教授・佐々木成明)
-
松之木香衣
『Y』
数人の女性の身体から採取した陰毛の形状を布に刺繍して、それぞれの女性の身長に合わせて展示するインスタレーションと写真、さらに衣服へと展開した作品郡。女性である作者は、それぞれの陰毛の個体差に着目してこのような表現方法に至った。
女性の陰毛は、これまで性的な対象としてだけでなく、お守りや崇拝の対象として、つまり神秘的な女性信仰の対象と見なされてきた。しかし身体を扱う様々な芸術表現の歴史において、これまで陰毛は表象化されないままの(されにくい)対象であった。女性の裸体を描いた絵画に、はっきりと陰毛が描かれはじめたのは19世紀後半といわれる。日本ではいわゆるヘアーヌードの解禁から、わずか20年しか経過していない。
身体の表面に残された、いまだ手つかずの最後の身体表現の領域である陰毛の表象に、作者は独創的なアプローチで、ひとり踏み込んでいった。白い布に黒々とした糸で縫い付けられた勢いのあるウェーブは、モデルとなった持ち主たちを想起させる。それらは墨の濃淡で描かれた山水画や風になびく草原を描いた絵画などを見るのと同じく、自然が創り出した美しい風景のひとつに他ならない。
霊長類の中で人類だけ、体毛のほとんどが薄くなっているのに、陰毛だけが残ってしまった理由はいまだに解明されていない。神秘的な対象とされる陰毛は人間の身体に残された原初的な野性の痕跡であり、さらに秘密の花園は21世紀の情報芸術の領域のひとつである。(准教授・佐々木成明)
-
松本壮史
『ガジラの青春』
ひきこもり。いじめられっ子。恋愛経験なし。だれもが思い描く青春とは縁遠いひとりの若者が、バンドを組んで学園祭で歌うまでを追い掛けたドキュメンタリー作品。カメラはその過程で揺れ動いていく主人公ガジラをきめ細かく追い続ける。「青春とは何か?」問い古されているが、すべての人がそれぞれの生きき方を見つめて考えてきた普遍的なテーマが扱われる。このシネ・エッセー的な映画のために集められた主人公のガジラとバンドメンバーの若者たち、そして作者自身のやさしい心のふれあいと成長の記録が一時間半に渡って描かれる。もがき苦しみながら今日から明日へと、少しづつ自らの殻を破っていく若者の姿は痛いけど美しい。
主人公を見つめる作者の眼差しは、シニカルでクールであったが、やがて自分自身が憧れている青春の有り様についての自問へと到着する。そんなドキュメンタリー映画「ガジラの青春」は非リア充世代の青春の譚として捉えたい作品である。(准教授・佐々木成明)
-
平野遼
『ホリディ』
平野が作るアニメーション作品に描かれる情景と登場人物たちの仕草や情動の多くは、どれもが作者本人がこれまで経験してきたこと、感じたことなのだろう。それら記憶の断片が、パッチワークのようにつなぎ合わされて成立しているように思えてならない。
一見すると風景や登場人物には整合性がないように見受けられる。しかしすべては「ホリディ」というタイトルで表された幸せな休日の思い出に他ならない。休日の家で聞いただれかが弾くピアノの練習曲、温泉地、旅館の日本庭園、一周した湖、ドライブ旅行、場末の夏祭、突然の雨。だれもが経験したであろう休日の情景の断片。どこか昭和の匂いがする若い女性、夏休みに小川で見かけたイモリの真っ赤な腹。屋根裏にしまいこんで忘れていたおもちゃ箱や宝箱から取り出された数々の思い出の断片がコラージュされて、もう辿り着けないであろう懐かしい子どもの頃の濃厚な甘くて苦い時間が蘇ってくる。
幼少期の記憶は、だれにとってもクリアではなく、成長して大人になった分だけ喪失してしまう。それら楽しかったころの記憶は、色あせて像がぼやけてしまった大切な古い写真を見るときのように、あるいは傷だらけで聞き取れなくなった古い歌謡曲のレコードを再生して聞いているときのように、断片的になって欠落してしまうだけ、懐かしさや愛おしさは増していく。そのような個々の思い出とは、古いなって像がぼやけ、音が聞き取れなくなるほど、すべての人にとって共有できるものとして共感を生み出すのではないだろうか。
記憶とは不確かで整合性がなく、使えなくなった遺物で埋め尽くされたホコリにまみれた屋根裏部屋みたいなものではないかと思う。
平野の作品は、それら尊い遺物の中から、判別可能なものを集めて、ひとつの物語の箱庭に丁寧に並べていったような、愛おしさとかけがいのない懐かしさをもっている。
(准教授・佐々木成明)
-
関内朋哉
『Unstable Bias』
異世界というのは、遠いところにあるのではなく、今ある現実と表裏一体のちょっとした裏側に潜んでいる。そんなことを感じさせてくれる作品。何の予備知識もなく、この映像を見ていると、ネガ反転した色彩が思わぬところで現実にある色彩を取り戻すところに驚く。ネガとポジは両極の位置関係を保持するのではなく、所々で表と裏が入れ替わって、どちらの世界が正しい世界なのか、確証が持てなくなるような不思議な仕掛けに満ちた映像作品だ。それは作者にとっての重要なメッセージでもある。ものの物性が入れ替わるところから始まる映像は、オムニバス形式で、次第に移ろいゆくものの裏表を曖昧にするような展開を示してゆく。作者は一連のネガポジ反転現象を見せることで物事の本質を言い表そうとしている。(准教授・森脇裕之)
-
政木裕太
『ちょうどいい距離感とは』
しずくのような形をした物体が多数揺れて、お互いにぶつかりあっている様子を見る作品。強烈なメッセージ性をもった作品ではない。ナンセンスともとれる絶妙な空気感がある作品だ。しかしそれを、つい見入ってしまうのはどうしてだろう。実は人の心の隙間にポイントを当てることに関して、作者は非常に優れた才能を持っているのではないだろうか。物事を認識するときには、はっきりと理由づけされない、あいまいでいるような現象であることの方が多いのかもしれない。それを突き詰めてはっきりさせるのではなく、曖昧な状態そのものとして受けとめてしまうような緩やかな認識があるとすれば、鑑賞側も安心することができる。作者が試みてきたのは、それを受け入れられるような素地と容量を持った作品のあり方だった。いい意味で見る側にゆだねられるように仕掛けられている作品だ。(准教授・森脇裕之)
-
川崎由美子
『とりかごひめ』
「とりかごひめ」の物語は、二年次に制作した絵本から始まった。その後作者は「とりかごひめ」の世界観をさまざまなメディアと手法で展開することを試みてきた。そうすることによって一つの絵本の世界は、空間的時間的な拡がりを見せたと同時に、物語の根幹をなすメッセージの本質が次第に洗練されていった。もともと「とりかごひめ」は非常によくできた物語で、わかりやすい寓話性をそなえていたのだが、物語中の作者の想いやメッセージがいかに伝わって受け継がれてゆくか、古くから伝わるおとぎばなしや物語が備えているような力の正体をさぐることがテーマとなった。この物語が持っている普遍性とは、作者の個人的な世界観の認識を越えて、次の世代へと受け継がれてゆく本来の強さを持つことであると、作者自身も次第に意識するようになっていったようだ。(准教授・森脇裕之)
-
日野智世
『擬態語昔話』
グラフィックデザインの新しい試みとして、擬音だけにによる絵本の制作を試みた。テーマは桃太郎。典型的な昔話のイメージをたどりながら、文字の構成だけでストーリーが進んでゆく。タイポグラフィー分野の発展型と見ることもできるだろうが、作者の場合は形体を主題とした空間構成のアプローチにとどまっていない。作者が注目しているのは、物語中に含まれる擬音のあつかい方だ。それは必然的に発する音響の場合もあれば、心の中に響くイメージである場合もある。このような日本で独特の擬音による表現は、そのような実際にはありえない心情の音をあつかっている点が世界からの注目されている。日本文化の発信力をうまく活用して、擬音絵本の物語に彩りを与えている。これまでになかった文字文化のメディアとしての新しい可能性を感じさせる作品に仕上がった。(准教授・森脇裕之)
-
嶋遥
『めぐる』
ボールがレールを伝いながら転がる過程を見せる作品。その途中では軽やかな音を発する仕掛けがあったりする。ボールインスタレーションは、過去にも例はあるが、作者がこだわっているのは、木製素材であるという点だ。作者はこれまでも、木製玩具に興味を持ち、さまざまなアプローチを繰り返してきた。自然素材として子供が触ったとしても、危険性がなく、手になじみやすい性質に着目していた。とくにボールが転がってレール面のでこぼこを越えてゆくときや、衝突するときに発する音は、木製ならではの柔らかななじみやすい音がここちよく感じる。そのような音響効果もあるが、この作品ではボールが頂点まで上ったのちに、枝葉を伝って落ちる様子を木々の生命の営みにたとえて、一種の生命賛歌を表現することを意図している。木の持っている素材感覚の追究から始まって、作品そのものの存在で自然への憧憬を表現しようとしたのである。(准教授・森脇裕之)