作者の世界観や宗教観を阿弥陀来迎図を元にオリジナルのキャラクターで再構築した掛け軸風の作品。このキャラクター群は作者が2年次から描き続けていたもので、ユニークな存在感を持っている。卒業制作では、日本画の風合いを再現する為に、岩絵の具によるシルクプリントとインクジェットプリンターの併用などといった新しい試みにもチャレンジしており、そういう点でも共感が持てる。
(教授・原田大三郎)
これは老夫婦のある一日を淡々と描写した、ストップモーションによるアニメーション作品である。作者はまず老夫婦の日常をビデオカメラで撮影・編集し、その映像を元にすべてを人形やミニチュアに置き換えアニメーションを制作した。その独特の手法は最終的にアニメーションとなった映像にも明確に現れている。この手法は実験的アニメーションの世界でも非常にユニークな作業であり様々な問題を投げかけている。
砂をマテリアルとして使った、いわゆるストップモーションによるアニメーション作品。作業過程では一見何が描かれているのか判らないが、それが蓄積され再生されると、みごとに風景やキャラクターが浮かび上がる。まさにアニメーションの面白さ・楽しさの、ある側面を浮かび上がらせてくれる作品だ。作者が延々持ち続けている"生と死"というテーマを砂を介して表現している作者の姿勢には共感を感じる。
(教授・原田大三郎)
アニメーション、及び音楽とも作者がひとりで制作している。その作業から生まれた物語やキャラクター表現、色彩表現はどれも独特で魅力的だ。2年生の時から作者はアニメーションと向き合い制作してきたが、内容的にも手法的にも卒業制作時にその努力が開花した印象が強い。
(教授・原田大三郎)
この作品は、3年生の時にまずはマンガ作品として完成されたもので、それを卒業制作においてアニメーション作品として再構築したものである。マンガからアニメーションという表現への移行には、最初不安もあったが、作者の粘り強い努力の元にアニメーション作品としても独特の雰囲気を持った作品に仕上がった。印象的なナレーションが導いてくれる物語は秀逸だ。
(教授・原田大三郎)
風景の中に点在する、"光点"をひとつの音としてとらえ、それを元に新しい楽譜を創造する試み。360度のパノラマ写真として再構成された風景がゆっくりとした速度で回転するさまや、その楽譜から生まれる抽象的な旋律とリズムは見るものに心地よい時間と空間を与えてくれる。作者は大学院への進学も決まっており、この作品を元により一層の発展に期待したい。
(教授・原田大三郎)
何気ない室内に置かれた身体の断片。無造作にベッドに横たわる身体は、空間に偶然置かれた物体のように、画面の一部として捉えられている。住人たちは、霊的な存在のように、その空間に偶然写り込んでいただけに感じられる。カメラは住空間の中でくつろぐ人物のために向けられているのではない。個々の生活をドキュメントするための構図は形成されない。
住人によって織りこまれた空間に漂う微妙な雰囲気と呼ぶべき霊性(ベンヤミン)は、世界中のすべてが均一のようでありながら、それでもここだけしか存在しない。そのような無意識の領域でしか我々が捉えられないなにかを定着するため、作者はカメラを向けた。期待を裏切るように無事件のまま刻々と過ぎていく日常について考察を行い。そこから光が創り出す普遍的な現象について、作者は認識を深めていった。明るい部屋に塵や砂埃が舞い知覚可能となる空気感や、廻り込む光が立ちあげる立体感と素材感。それらのすべては住まう人物に帰属する現象である。空間に宿る霊性を、かけがいのない光の痕跡として定着する試み。金瑞姫は、写真だけが定着可能な、世界中でここだけに発生する微細な光暈(こううん――ハレーション)を写しとろうとする。どこにでもある空間は、シャッターが押された瞬間に、永遠に変わることのない現象の場として定着される。
(准教授・佐々木成明)
作者の亡くなった父に捧げられたヴィデオ・インスタレーション作品。吊り下げられている涙の形をした白いオブジェ群は、韓国の寺院に奉納される真っ白な送り灯籠がモチーフだ。作者は、その灯籠ひとつひとつに影絵を映写した。絵に表された娘と父親のやりとりは思いでの情景だ。ヴィデオ・メディアは、すでに失われた過去を記録して再生する。もう触れられない愛おしい故人は電子の記憶の中で生き続けている。そのためだろうか、多くのヴィデオ・アート作品は霊的な赴きを感じさせる作品が少なくない。イ・ジェウォンのヴィデオ・インスタレーション作品も、個人の思いや祈りがメディアの特性に再配置されている。作者が故人と出会うためのインスタレーション空間は、交霊の場所として見る者に思念の場所を提供する。
(准教授・佐々木成明)
幼少の自分を祖父が写した1枚の写真。遊園地のメリーゴーランドの馬に跨りカメラに視線を向けているのは確かに自分なのだが、その記憶は曖昧だ。回転木馬の手触り、豪華なメリーゴーランドが映り込んで揺れる水面。その日のことは明確に思い出せないが、おぼろげな記憶は確かに残っている。作者はこの1枚の写真を手がかりに1年の時間を費やして、ワークインプログレス的にインスタレーション作品を制作した。実物大の馬、黒い水面に映る光、黒い旗、巨大な音響。何回も繰り返し作り換えされていった作品には、様々な要素が現れては消えていった。押しよせては消えていく記憶の波に捉え所はないが、想像の源でもある記憶によって、新しい創造は生み出されていく。まるでおもちゃ箱をひっくり返したような物量で、作者は巨大な箱庭を幾度となく作り直していった。明確に固定化するのではなく、転生を繰り返す記憶が、そのように表された。吉岡の記憶と創造の術で、ここにしかない空間が生成された。
(准教授・佐々木成明)
学生プロレスをテーマとしたドキュメンタリー作品。作者自身が大学生活を捧げたインディーズの学生プロレス集団の日々を切々と綴る。青春群像と書くと陳腐になるが、若者が充実感を求めて迷走する姿は常にどれも切なくて美しい。手作りの巡業リングでおこなわれる試合。裸の身体に痛みと喜びを刻み込みながら、若者たちは自分にしか味わうことのできない充実感を精一杯受け止めて生きている。その姿は滑稽にも見えるが、すがすがしく、かわいらしい。作者が学生時代を過ごした小宇宙が、思い入れと客観性の両方がうまく一体化した秀逸なドキュメンタリー作品として結晶化されている。
(准教授・佐々木成明)
沈黙のミステリー・ドラマ。3つのショート・ストーリーはどれも同じマンションの1室が舞台だが、1話ごとに住人たちは変わっている。孤独な一人暮らしの密室で物語はサイレント映画の様に淡々と描かれていく。人間の心の奥に潜む「見る・見られる」にまつわる不安と欲望をテーマに現代社会における視覚の優位性がアイロニカルに描かれる。他人のプライバシーに介在できる者、ここではない彼方を注視する快楽に溺れる者、存在するはずのない他者に記録され続けている者。Web、ヴィデオカメラ、デジカメ。彼らが迷い込んだ迷宮とは、日常使ってる視覚装置が拡張してしまった、我々の心の闇の奥なのだろうか。
(准教授・佐々木成明)
和田永くんは,テープレコーダーやブラウン管テレビなどの古い電化製品をコンピュータ制御し,生楽器などと組み合わせて独特の音響作品を制作してきた。卒業制作の「Braun Tube Jazz Band」では、古いブラウン管テレビとPC制御したビデオデッキを音階の数に並べて打楽器を制作、第13回文化庁メディア芸術祭のアート部門で「優秀賞」を受賞した。複数のブラウン管を本能的に叩くパフォーマンスは、アナログとデジタル技術が交錯した叫びのようでもある。
(教授・三上晴子)
魚住剛くんは、コンセプトと対峙し、メディアアートの置かれた歴史的状況を意識しながら、エージェントの問題やアートにおける出力の可能性を探求、作品を制作してきた。卒業制作「F - void sample」は、発生と消滅のプロセスを点、線、面、立体、超立体へと書き換えて行くプログラムで作られた造形世界を、わずか爪ほどの大きさの液晶ディスプレイに可視化、顕微鏡で覗くという作品で、第13回文化庁メディア芸術祭のアート部門「奨励賞」を受賞した。
(教授・三上晴子)
アルミニウムでつくられたミニマルな直方体の中に、それを被るように頭を入れると、内面一面に苔が生息している。生きた苔特有の匂い、高い湿度特有の空気感など、苔というバイオメディアが有している、独特の嗅覚や触覚を体験することができる。その感覚は、視覚というよりもむしろ聴覚的であり、頭を入れた瞬間に音ではない音が聴こえるような感覚がする。21世紀のニューメディアとしての、バイオメディアと知覚の関係を問う作品。
(教授・久保田晃弘)
劇場を思わせるほどの大きなステージの上に、水平と垂直に設置された、アンティーク風の大型の木製舵輪が設置されている。この作品は、世界各地でサンプリングされた音による、いわば「音地球」を架空の船で自由自在に航海する、インタラクティブな映像音響インスタレーションである。直感的な操作とドップラー効果のシミュレーションによる速度感、そして音と映像に全身が包み込まれるようなスケール感が心地良い。
(教授・久保田晃弘)
米国の心理学者ミルグラムのスモールワールド実験によって「自分の知り合いを6人以上たどっていくと、世界中の人とつながりを持つ」という仮説が広く知られ、のちの情報理論の礎を築いた。このミルグラムの仮説が情報化時代の常識となった現代において、猪股が情報空間の視覚化を試みたときに思い描いたのは、進歩し続ける情報化社会の姿ではなかった。昔ながらの駄菓子屋にあるクジ引きのしくみや、植物の根のからみあった様子など、むしろ身近な人間の生活のなかにある、生々しい「つながり」の観点が彼女の関心をひいたのである。情報のつながりとは、しょせん実体のないものだが、そこに空虚さを感じて、実感しなければ納得できない今を生きる人たちの、等身大のリクエストがそこにある。その正直な衝動を形にしてゆくことをめざした猪股の作品は、同時にそのテーマが抱える何重にも複層化した、きわめて現代的な事情に悩むことにもなる。しかし結果、それらを思い切って切り詰めた形に結論づけたところで、作者の底力を感じさせる作品に仕上がった。
(准教授・森脇裕之)
制作の開始当初に藤田はテーマとして「無限」について語り始めた。無限に続く道、無限の時間など無限のテーマは、創作者の夢想をかき立てるような魅力を秘めているものであった。単純に考えれば、自分の思い描くイメージを具現化するために、コンピュータグラフィクスによる映像表現技法を用いれば、かなり満足のいくものができるに違いない。しかし彼女はあえてそれを選ばずに困難な道を選択した。そこに彼女が在学中に培ってきた主張がある。頭で理解するような「無限」イメージの再現ではなく、「無限」を身体で感じるための装置を作りたいという彼女の意志ははっきりとしていた。夢への階段を自分自身の足で、感触を確かめながらゆっくりと登り続けることのできる作品が、じっさいに観客の前に用意されることになった。いかなる言説があったとしても、このような体験に勝ることはない。そこに一人の造形作家としての強い意気込みを感じるのである。
(准教授・森脇裕之)
彼女はアーティストの卵である。まだ孵化をしていないが、世に出るチャンスをうかがってその準備に余念がない。したがって、近い未来に花開くことになる自分の世界を探し求め、自分が自分らしくなる空間を懸命に作り込んでゆくのが、さしあたっての彼女の仕事だ。もちろんそれは、世に出ることを尻込みしているモラトリアム発想ではなく、真摯にアーティストとしての責任を果たすことを考えているのだが、成長する将来の自分自身を客観的に観察している、彼女独特のメタ的な視点もふくまれるところが面白い。アーティストのアトリエでは、そこに用意されている画材も、メモも、さらに食べ物の嗜好すらも、本人の心情そのまま反映させたものとなって独自の空間を形成する。彼女の活動においてはアトリエ制作環境を作りあげることと、作品を制作することはまったく同義なのである。自分は未熟だと思い込んでいる彼女は、自分の将来の作品に向けての構想を練りつづけるうちに、すでに成長し続けるアーティストであることに気づくことになるのだろうか。
(准教授・森脇裕之)
天井から吊されたナイロン糸による巨大な構造体のかたちは、自然界に存在するものから形状アルゴリズムを抽出するところから生まれた。"生物のかたちづくり"に理論的な目を通して考察する手法を通じて、造形原理に迫りたいと願う発想をベースにしている。もののあらわれの奧にある造形原理をあらわにしようとする彼女の仕事は、造形の基礎をしっかりと受け継いだ確かな仕事だ。そのうえに彼女の場合、ゆっくりと動くLEDの仕掛けでナイロン糸が照らし出され、構造体のなかで青くきらめく効果も取りいれている。幾重にも編み込まれたナイロン糸のなかで、偶発的にも繊細な光点の重なりがうつろってゆく様を体験することによって、総合的なイメージ空間をつくり出している。そこで立ち現れてくる静謐な気品あふれる空気とふれあうことのできる作品である。
(准教授・森脇裕之)
スリット状に高く伸びたスクリーンが、身体のスケールや目の機能に束縛された視覚を変容し、この地上と宇宙のつながりや、私たちが大気圏の底にへばりついて生きているちっぽけな存在であることを再認識させる。一方で、じっと目を凝らせば、そんなスケール感の中の微かな動きが、かけがえのない生を感覚を呼び覚ます。マキシマムでありかつミニマルな、宇宙と人間の映像インスタレーション。(教授・久保田晃弘)
生命は、外界とのインタラクションによって、自らを開放した非平衡状態にすることで、動的な秩序状態をつくりだす。その最も身近な例が、食事、消化吸収、排泄という一連の日々の行為である。そんな生命の基本原理を、渦巻というシンプルな形状と、食物というよりも血液を思わせるトマトの流動によって表現した、大規模なインスタレーション。人間の体も、基本的には一本のチューブなのだ。(教授・久保田晃弘)
野田の作品は、個人や家族が写された日常のなにげないスナップ写真を、もとの状況が分からないほど、多重現像処理を繰り返して作り出される。それらは火と熱で幾度となく焼かれ、偶然できた痕跡のような、抽象的で不確かなイメージだ。しかし時間をかけて作品を見続けていると、イメージを形成していたもとの写真がもっていた意味や事象が、作品全体を成立する細胞や成分として小さな声で囁きはじめる。響き合い共鳴し合うそれらの呟きの声は詩となり、だれもが抱えている記憶の根底に語りかけてくる。(准教授・佐々木成明)
現代社会の中で、様々な問題を抱えつつも、生きていく人々を、中年サラリーマンと呼ばれる階層に着目し、表現した平面作品。CGと写真、また鉛筆による手書きなど、様々な手法を組み合わせ、独特の風合いを持った画面に仕上げることに成功している。(教授・原田大三郎)
水の中に落ちる白いインクは二度と同じ状況を生み出すことなく、常にさまざまな美しい形状を創り続ける。その移り変わっていく様子は、本質的な自然のうつろぎゆく情景、そのものに思えてくる。
誰もが感覚的に思いを巡らして見入ってしまう、小さな水槽に閉じ込められた小宇宙は、かけがいのない思念の場である。注視していると意味や重力的な感覚さえ忘却されてしまい、心地良いゲシュタルトの崩壊が訪れる。
この装置は、観る者に感性との対話を可能として、それぞれの心象に大自然を創造する。(准教授・佐々木成明)
石黒奈々子さんは「息を吹くと映像が変化する作品」など一貫して空気をテーマに制作してきた。「air+air+air」も空気を媒体とした情報の動きそのものを形態化している。この作品は様々な場所に設置されたQRコードが埋め込まれた構造体から携帯のバーコードリーダーでその情報を読み取ると、無数の 構造体からなるメインのインスタレーションにコードの光が瞬時に蓄積されてい くインタラクティヴ・インスタレーションである。観客のアクセスにより蓄積さ れて行く光はまるで蛍のように作品空間に現れ、そして観客もこの作品のもとに 集まってくる。(教授・三上晴子)
伏見の作品の魅力は、映像のもつ生々しさを伝えてくれるところにある。そこにたちあらわれる映像は、デジタルに慣れきったわれわれにリアルを突きつける。20世紀からの映像メディアはつねにリアルを追究してきたが、はたしてそれをクリアしてきたのか、疑わしいところも残している。そういうなかで、あえて時代の遺物化しつつある実物投影機の原理をもちだし、そこに現代的な味つけをほどこした。そうして生み出される映像に、今日的な意義を見いだそうとする伏見の取り組みは、これから重要な意味を持つものとなるだろう。(准教授・森脇裕之)
言葉と、それが指し示す事物とのずれが引き起こす笑いを、携帯電話や、日常生活の中の何気ない風景の中に見出し、作者の繊細な感覚で映像化した作品。白黒の映像処理や、ミニマルな構図から生まれたスタイリッシュな映像が、笑いとの対比を生み出し、興味深い。完成度の高い作品だ。(教授・原田大三郎)
女子高生が持っているエロチシズムを作者の視点で切り出し、構成したイラストレーション作品。
大胆な構図と色彩が心地よい。また、紙の選択や独特のデフォーカスの表現など、インクジェットプリンターの持つ、可能性を追求した点も評価できる。(教授・原田大三郎)
無数のポラロイド写真がムービーに変換され、暗黒の空間の中を浮遊している。それらのイメージは、左右二つのスクリーンに映写され、鑑賞者が覗きこむ鏡によって立体視される。この作品は作者がこれまで撮影してきたポラロイド写真を立体視する装置であり、今年度で生産を終了するポラロイド写真の霊廟的なインスタレーションであろうか。写真とは本来物質的な存在であり、風化して失われるはかなさを抱えていた。それゆえの愛おしさを秘めていた。この作品は、記憶と記録の間におかれていた本質的な写真の有り様を紐解き、その美しさを讃える。(准教授・佐々木成明)
デイヴィッド・ヒュームはそれ以前の哲学が自明としていた知の成立根拠を問い、人間の悟性、感覚、道徳を『人間本性論』で論じた。
性質・傾向を表す性(さが)とは、人が生まれながらに持っているものであり、儒教では人の道徳的能力の問題に言及し人性論が議論されてきた。我々人間の知覚や外界への反応は、社会的構造によって創り出されるのではないか。性(さが)と名付けられたこの作品で、作者は客観的でありながらも、ウイットに富んだ語り口で、本質的な人間性を解き明かそうとする。(准教授・佐々木成明)
ファスナーを利用した環境家具や、ファスナーの楽器を創作していた作者が、卒業制作として提出した作品は、ファスナーを素材とした壁画風タブローであった。それは、現実の生活空間での展示機能を突き詰めた結果の作品形式であり、当初から絵画的なタブローを目指していた訳ではない。「美術」を訓読みすると「すばらしいわざ」と云う意味だが、ファスナーのもつ機能や用途を突き抜けて、創作的な心象を表現した、うつくしい作品となっている。(教授・高橋士郎)
遊戯装置としてのシーソーの、どこに心をとらえられるのかという問いかけに対して、岩本は遊戯装置の機構的な側面からそれをさぐっていった。そしてさまざまな逡巡の末に、体験者の協調作業がもたらす共有意識の問題であるという答えにたどりついた。
複数の節桁の上で金属ボールをうまく行き来させるために、2人の体験者には息のあった屈伸運動がもとめられる。シーソーの両端にいる2人の体験者は、ボールに意識を集中させればさせるほど、シーソー運動が相手とのシンクロナイズの問題となってくる。つまりシーソーそのものに答えがあるわけではなく、岩本のあたらしい遊戯装置の発明は、コミュニケーション・メディアの発明となったわけである。(准教授・森脇裕之)
近年、海外でもその存在を評価される、日本の漫画やアニメーション。作者も例に漏れずこれらの文化にふれ成長してきた。しかし作者は、その影響を単純な憧れやノスタルジーに留めるのではなく、キャラクターの表情と作者が描く力強い線に集約させ、独自の絵画を構築することに成功した。それは日本的、漫画やアニメーションと現代美術の融合から生まれた、新しい日本の表現となる可能性を秘めている。(教授・原田大三郎)
横たわる人物。その人物の微妙な動きをシミュレーションした骨のCG映像。その二つの映像を、ある時間軸の中で重ね合わせ、黒いベッドの上に投影したインスタレーション作品。作者は三年次より、"骨"を意識し、様々な作品を制作し今回のスタイルに辿り着いた。その思考の過程は今回の作品を見ると決して無駄になっていなかったことが判る。(教授・原田大三郎)
猫に焦がれた男が織り成す、不思議な生き様を描いた絵本。猫と猫に焦がれた男と、その主人。この複雑な関係の中には、作者の人間に対する深い思いが込められている。またこの物語を道案内する絵は、独特の強さを秘めた印象深い絵である。そこには作者の画家としての力量を垣間見ることが出来る。(教授・原田大三郎)
荘子の"胡蝶の夢"をキーワードにし、文学・数学・哲学・科学が持つテーマや問題を盛り込み、作者の人生観を表現したモーショングラフィックス作品。作者の卓越した、グラフィック感覚やアプリケーションへの知識が随所に埋め込まれている。また締め切り間際まで努力した、その結果が作品に反映されているのも好感が持てる。完成度の高さは作者がすでに映像の世界でプロフェッショナルとして生きていくことが出来ることを物語っている。(教授・原田大三郎)
映画に登場する年齢を重ねた男"オジサン"の捕らえどころのない存在感に魅せられて、作者はオジサンの肖像をとり続けた。写真ではなく、インタビュー形式の映像で綴られた様々なオジサンたち。巷、どこにでもいる普通の人々。愉快で、呑気で、どことなく哀愁を漂わせる男たちの肖像は、その存在だけで匂いさえ立ち上がってくるほど多弁であった。(准教授・佐々木成明)
川上秀行くんは「漫画 (manga)」の可能性を作品として拡張していく姿勢を貫いてきた。フィールドワークでも漫画を多方面から研究し、自らが制作したアニメーションのページを観客が操作していくインタラクティブ型の作品は、デジタルマンガ大賞のメディアコンテンツ部門で優秀賞を受賞し、愛地球博ロータリー館でも展示された。 卒業制作「萬絵詞」YOROZU-E-KOTOBAは、人間の欲望に潜む本能を墨絵的に表現したアニメーションであり、また、床の間の掛け軸をフレームとして捉えた空間で展示した映像インスタレーションでもある。(教授・三上晴子)
長谷川優さんの「there is」は瞼の開閉をインターフェイスとした作品で、無意識と意識、意味と無意味の狭間をスイッチングしていく。視覚情報として即座に認知される「物質」は、もしかしたら瞬きをした瞬間に忘れ去られるかもしれないというテーマを起点に、前期では瞼の開閉で映像が変化する作品を制作、後期には配置された物質の組み合わせが変化する作品を完成させた。瞬きをした瞬間に意識的に強く現れてくるものと消失していくものがあるというプロセスをインタラクティヴ・インスタレーションとして表現している。(教授・三上晴子)
豊嶋七瀬さんは「in the Chain」に行き着くまで、たえず「生きている」「死んでいる」いう定義の間にある「何か」を捉えて作品化しようとしてきた。この難しい問題に3年生時には棺桶の作品まで制作している。この作品は「生きているとはどうゆう事か」いう定義をネット検索し、その単語の連鎖によって空間に逆さに言葉が浮かび上がり、それを巨大なレンズがさらに逆さにして正常化しいくという、ループを繰り返している。文字だけが一直線に右から左へと反転移動しながら延々と続く静寂なインスタレーションである。(教授・三上晴子)
多田ひと美さんの「全的に歪な行且─第二犯」には「全的に歪な行且-第一犯」という前作品がある。それは六法全書を特殊な装置によって歪に読み上げるインスタレーションで法律の文脈のカオス状態を表現していた。卒業制作では毎日のグーグルのニュースを即座に画像検索し、そのニュースをある意味で勘違いした画像によって組み替えていくプログラムを制作し、最終的に知らされる情報と知るはずもない情報がリアルタイムに混在した映像インスタレーションとなった。情報の破壊と歪な再生を試みた作品と言える。(教授・三上晴子)
生活の中にとけ込む何気ないインタラクションは、日常生活を活性化させると作者は言う。写真では何の変哲のないテーブルに見えるが、手をかざすとピアノの音色がする。テーブルトップの裏側にセンサーが隠されていて、反応すると音が出る仕組みになっている。うまく手を動かして曲を奏でることもできる。ティータイムにこんなテーブルでお茶をすれば、会話が弾むことだろう。この作品で作者は、生活空間のなかに、メリハリを与える役割を果たすアートのあるべき姿を夢見ようとしている。(准教授・森脇裕之)
乳白の液体が満たされた円皿が、整然と並んでいる。時折、静かな液面にぽつりと滴がこぼれて、水面に波紋が拡がる。それだけしかない空間で、ずっと追い求めてきた作者の心象風景を語ろうとしている。彼が一貫して求めたのは、「白」い空間。白は何もない虚空であると同時に、万物が生み出される前の原点でもある。「白」い空間に作者は自分の創作の原点を見いだして、それを求めた。この作品は彼の原点であり、すべてはここから始まるという意味で卒業制作にふさわしい作品になった。(准教授・森脇裕之)
ネコ好きで、日頃からネコの生態研究に熱心だという作者が作ったのは、巨大なネコの後ろ姿。日頃からネコのおしりに惹かれるという。神社の鈴のようにしっぽを振ると、股間がもぞもぞと回転するあたりは非常にユーモラスだ。脚をふんばる立ち姿に、つい頬がゆるんで何もかも許してしまいそうだ。作者のマイペースに惹かれてしまう力が働いているのか、無邪気なようでいて、あなどれない共感覚を感じさせてくれる作品である。(准教授・森脇裕之)
商品ロゴとキャラクターのシールやステッカーを貼り合わせたコラージュによるにぎやかなプリント地の晴れ着と、自らが装う写真が北村の作品である。おもちゃ箱をひっくり返した様な色彩と記号の布で作られたイメージを作者は東京ネオキッチュポートレートと名付けた。キッチュとは、俗悪、異様なもの、意外な組み合わせで、見る者にとって異文化に属するものであったり、時代を隔てていると感じさせる美的価値であるが、キッチュこそが現代の東京に蔓延している環境そのものだと北村の作品は教えてくれる。(准教授・佐々木成明)
完全に倦怠期に入っている老夫婦と、うだつの上がらない長男という、ある家族の夕食の風景をヒップホップの音楽に乗せ、軽快に構成したモーショングラフィックス作品。アフターエフェクトによって加工・合成された映像は作者独自の美意識によって作り上げられており、また技術的にも高い。デスクトップな環境において製作される映像の可能性を示した秀作である。(教授・原田大三郎)
大家茜の作品『Maria』はブランクーシ彫刻の精密な複製と、タルコフスキーの映画『ノスタルジア』の全カットを模写した写本で構成される。写経芸術とでも呼ぶべきだろうか? 複製やサンプリングが主流の現代において「念」の具現化という芸術の本質的な役割を思い起こさせる。タルコフスキーは『映像のポエジア』において、映画とは時間の彫刻であると述べた。ブランクーシは対象を単純な形態としてとどめ、抽象化を極めた。大家の作品で扱われる彼らの共通点は切りつめること、すなわち抽象化や編集による本質の抽出であった。作者は写経芸術により、自らを媒介として人間が営み続けてきた芸術の小宇宙を具現化する。(准教授・佐々木成明)
クローズアップで撮影された水の写真。それぞれのイメージは流動的な水の表情を捉えている。それらが相互の関係性を結び3メートルを超える壁面となり見る者を取り囲む。暗い空間に配置され、薄明かりで照らし出された青い壁面は、深海に一人沈んでいくような感覚を及ぼす。水を見つめること。作者は我々が生きていく上で欠かせない生命の源である水を時間をかけて見つめ、早朝の蒼い光の中で日々撮影しつづけた。それは日常生活の中で見過ごしてしまいがちな身近な自然の美しさを再確認する行為であった。膨大な水の記憶は列なり、ひとつの空間を作り出した。(准教授・佐々木成明)
gossamer1は抽象絵画を自動生成するマシンによる絵画インスタレーションである。マシンは天井から吊るされており、作品を展示している空間の音を解析し、グルーを絵具として、カンバス上にエロティックでグロテスクな独特の質を持った半立体の抽象画を描く。オートマティズムの画家のパロディであると同時に、部屋の音や風といった環境とインタラクトしながら制作する、創作の主体を問う作品ともなっている。(教授・久保田晃弘)
音と形態の結びつきをテーマにしたオーディオ=ビジュアル・ライヴパフォーマンス作品である。曲げ、傾き、そして距離センサー用いた自作データグローブをインタフェースとして、オブジェクトを物理的に触れたり、掴んだりするアクションで、演奏者は音という素材に触れながら音響構成を行う。具体的には、大きな「塊」の頂点がオシレータに対応しており、この塊の形態を操作することで、塊としての音響が変化していく。(教授・久保田晃弘)
大人のためのジャングルジム。グリッド状に組まれた巨大な足場に点在する音を拾いながら、体験者はその中を自由に移動していくことができる。グリッド内には計30個のスピーカーがあり、それぞれ異なる音を出力し、近づくことでそれぞれの音を聴きとることができると同時に、ミックスさせることもできる。寺のお経は波紋のように水平に広がり、教会の讃美歌は頭上から垂直に降り注ぐ。「方向」は「意味」を媒介する。(教授・久保田晃弘)
音響書道は、書道の際に発生する具体音と、書道そのものが持つリズミカルな筆の運びや筆を握る圧力などのフィジカルな要素で楽曲を構成していくサウンドパフォーマンスである。巨大な半紙の下には、自作のマイクロホンが設置されており、そこで拾った音を筆に取り付けられたスイッチによって任意のポイントでカットアップできる。それらの音を幾重にも重ねてループさせることで、文字が音として空間に充満していく。(教授・久保田晃弘)
不可思議な装置のハンドルを回して水と油をかき混ぜる儀式を行うと、巨大な赤ん坊の顔がひきつったような笑みを浮かべる。妖しさに魅力を感じていると作者は言う。複雑で明瞭でない機械と人間の関係について、奇妙な状態をつくりだして表現している。この作品にどこか懐かしさを感じるのは、科学技術社会が進歩しすぎたということなのだろうか。文明批判的でありながらも決して後ろ向きではない作者の独特な感性をうかがい知ることができる。(准教授・森脇裕之)
自分の少年期を振り返り、前作の「自殺」に引き続き「大人になる」をテーマに若者たちの悩みと矛盾をあからさまにしようとする試み。テレビのなかのバーチャル・スタジオに登場するキャラクターは、作者自身が何役もこなすという多才ぶりで、それが複数台の同期再生によって激しくもおかしい討論をくり広げる。役作りされたキャラクターを演じるなかで、垣間見られる作者自身の本音が興味をひく。(准教授・森脇裕之)
五感のうちの触覚を活用したメディアを考え、一貫して触覚をテーマにした作品を手がけてきた作者だが、作品を重ねるごとに触覚には手触りをともなうマテリアル性、触覚体験を導くためのインタラクション性などが問題となることがわかってきた。同時に感覚をひとつだけ抜き出して表現することの意味性がうすれて、結果的により総合的な表現へと向かっていったのである。(准教授・森脇裕之)
芸術は自己を見つめるためのプロセスだという。彼女は自分を見つめ直すための分身に取り組んできた。ただし、もっとも他者と関わるはずの顔の部分にぽっかりと穴が開いて、万華鏡が組み込まれているのが特徴的だ。のぞき込んでみると周囲の環境を映し込み何重にも反射をくり返し複雑なパターン模様を投げかえしてくる。人間どうしの関わりが複雑な状況にあることを象徴的に表現しており、そこに作者のとまどいが表れている。(准教授・森脇裕之)
Cg合成による風景写真『Rocket』では、都会や観光地といった見慣れた日本の風景の中に、当然のように巨大なロケットが配置されている。しかし合成された風景写真を見ていても、いごこちの悪い違和感、ましてパロディー的な印象は受けない。狭い国土をパッチワークのごとく様々な人工物と情報が埋め尽くしているこの国の現状を考えるなら、ほんの少し今までの歴史が違っていたなら実際にあったかもしれない日本の風景なのだ。中江の『Rocket』が教えてくれるのは、可能性の中にあるもう一つの日常なのだ。(教授・原田大三郎)
フェルメールの絵画をCGで再現し、ステレオスコープを用いて立体視を体験させ、さらにその画像を回転させることにより、描かれた部屋のなかへ入ってしまうという驚くべき作品である。メディア・アートをパースペクティヴの歴史のなかへ投げ返しながら、「キャンバスの裏側」というフィクションを示し、「絵画によって見られる」という不思議な経験を惹き起こす。技術と魔術の結婚である。(教授・原田大三郎)
遠藤麻里の『東京ジプシー』は開くと1メートルを超える巨大な絵本。製本された書籍に遠藤は印刷ではなくハンドペインティングにより東京に住む同世代の愛の物語を描いている。ページをめくると、そこには肉筆で描かれたアウラ的世界が拡がる。この世界にただ一冊、ここにしかない世界、ここにしかない物語。それは突き刺さってくるような本質的な絵物語メディアの創造でもあった。(教授・原田大三郎)
透明な液晶ディスプレイと、超音波センサーによる独自のインターフェイス・デバイスを使用したパフォーマンス作品。東京初台のICCや町田版画美術館を始め、さまざまな場所で演奏された。液晶ディスプレイの背後に手を挿入して操作することで、面としてのインターフェイスを空間としてのインターヴォリュームに拡張し、視覚上の3次元空間と身体的な3次元空間を結びつける。そこにデューラーの遠近法爾来の、2次元と3次元の相克の歴史を重ね合わせることも可能だろう。(教授・三上晴子)
携帯電話から「k@generative.info」へアクセスし、そこへメッセージを送ると、彼がプログラミングした時間軸をもった独自のタイポグラフィーによってテキストが変換される。この携帯電話を利用するソフトウェア作品「千篇書道」は、情報処理推進機構の2005年度未踏ソフトウェア創造事業「未踏ユース」において採択され、開発支援を受けた。このプロジェクトは広く公開され、ユーザからのダウンロードによって、さらなる進化を遂げるだろう。(教授・三上晴子)
身体が入る程の大きな2つのボックスは、体験者が対面するように設置されている。鏡とガラスがスリット状に交錯しているため、自分の身体と相手の身体が分断されていくように感じるが、その体験の根底は他者との違和感によって成り立っている。そこに設置されたマイクでは、相手と話そうとすればするほど相手の声は聞こえなくなる。ディスコミュニケーションをテーマにしたこのインタラクティヴ・インスタレーションはNHK-BS 「デジタル・スタジアム」でも紹介された。(教授・三上晴子)
テレビというメディアに徹底的に拘ったこの作品は、現在放映されている全ての番組がリアルタイムに3次元のオブジェクトのテクスチャーとなって巨大スクリーンに映し出される。ネットでの視聴率とも対応し、観客のリモコンによるザッピングにも対応しながら、その蠢く画像がグラフのように上下に移動し、事件映像がアイドルになり「ザッ」という音とともに次々にそのイメージは変容していく。ありそうでないこのテレビ・アートの前には、我々の否応無しの日常が現れてくる。(教授・三上晴子)
トイレという密室空間での作法とは、誰に見せるものでもないだろう。そのばかばかしさをあえてマニュアル風に仕立てあげた。人間のとる不可思議な慣習のおもしろさに着目していた作者が目をつけたのは排泄行為だった。そこでは文化・民族的な背景や風俗史の観点が浮かびあがってくる。排泄行為にひそむ「羞恥」という心理作用を、あからさまに表現し笑い飛ばすことで、かえって作者の求めている興味が浮かびあがる構造をねらった点は独特のセンスが光る。(准教授・森脇裕之)
鉄道模型の列車が白いジオラマのなかを回ってゆく。そのタイミングに連動して天井から投射される映像では、街のなかで起こる物語が映し出される。作者はリアルとバーチャルを結びつけ、統一感のある世界をつくりあげた。オブジェ制作、センサー・システム、映像制作とさまざまな要素がこの作品では取りこまれているが、これらが連動して動き始めたときに、さらに新しい世界を広げることができることをこの作品は証明している。(准教授・森脇裕之)
「インタラクティブ・ミラーボール」と名づけたい作品。光を浴びて光り輝くミラーボールへの関心が、自らの手で操ることのできるミラーボールへと進化させていった。この作品では光のシャワーを浴びるといった形容詞がよく似合う。おそらくこの作品は一般に受け入れられやすいだろう。作者が考えるように、パーティー会場やイベントなどで使用されると際だつ存在となる。社会にとけ込むメディア・アートはこれからの重要なポイントだ。(准教授・森脇裕之)
戦車が好きで、つくってしまった男。自分の好きなことをそのまま実践してできたのがこの「妄想の戦車」だ。そのできばえを見る限り、どんなことでも自分の信じることに覚悟を決めてとり組む姿勢について、彼はお手本をしめしてくれたといえるだろう。こだわりをそのままぶつけることは、何をおいてもアートの基本中の基本だろう。美術学校に入学してこのもっとも重要なことに出会った彼は正しかった。(准教授・森脇裕之)
この作品は作者の確かな画力と繊細な色彩感覚によって生まれた、手描きアニメーションの秀作である。またコンピュータによる着色やアニメーション化も行われており、そういった意味では、デジタル環境の成熟が成し得た、新しい時代のアニメーションということも出来る。しかし、この作品の魅力は、そういった技術的な側面だけではなく、作者が以前から持ち続けていた、"輪廻転生"のテーマが作者なりの視点で表現されている点であろう。今後の活躍に期待する。(教授・原田大三郎)
Cgによる仮想の都市というテーマを、作者は一年を通し持ち続け、途中、様々な試行錯誤があったが、最終的には現在の形に収まった。完成した作品だけでは、なかなかその試行錯誤の経緯を見ることは出来ないが、しかしその日々の努力の結果がこの作品を生み出したのは事実である。圧倒的なモデリング量によって表現されたこの都市は、そのリアリティーによって現実と仮想との狭間の、不思議な空間を創り出すことに成功している。(教授・原田大三郎)
きわめて日本的な情景を淡々と描きながら、「時」に対する哲学的考察が深みを与えている。晩年を迎えたひとりの男性が黙々と庭仕事に精を出すが、横には常に彼の分身が同じように働いていて、あたかも人生がバックミラーに映るかのようである。ひとつの庭が人生の小宇宙となる過程を通して、庭にとっても映像作品にとっても、そして人生にとっても、「完成」とは何を意味するのかと問いかけている。(教授・港千尋)
街中の街灯を次々に撮影し、それをスライドショウに編集するという一見してシンプルな作品でありながら、時空のひろがりを感じる不思議な作品である。あたかも街灯の光だけが動かず、周囲の光景だけが変化してゆくような錯覚にとらわれる。誰も気に留めることのない対象を追った都市論的記録であると同時に、夜の冷たい光を丹念に掬いあげながら、そこに新たな「美」を与えることに成功している。(教授・港千尋)
この作品は自作のインターフェイスにより「地球」を感覚的に探査できるインタラクティブ・インスタレーションである。手で垂直と水平の間を自在に操っていくと、地球の裏側にまでも到達していくことが可能である。丸い地球は足元に広がる大地と一致してないというスケール感への疑問から生まれたこの作品は、文化庁メディア芸術祭で「優秀賞」を受賞した他、幾つもの公募展で優秀賞を受賞した。作品は東京都写真美術館、山口情報芸術センターなどでも展示された。(教授・三上晴子)
自作のターンテーブルとCCDカメラを用いた光学ピックアップを組み合せた作品。絵を描くことで音をつくりだすことができる。ピックアップからの光の入力を黒、赤、黄、青、緑の五色に分解し、そこからさまざまな音を生成すると同時に、ターンテーブル自体の回転をコントロールする。その場で自分の「色レコード」をつくることもできる。インタラクションとフィードバックの組み合わせが絶妙だ。(教授・久保田晃弘)
闇の中で仮想の物体を身体の振動で認識していくこのインタラクティブ・インスタレーションは、身体の触覚と聴覚に焦点をおいている。ランダムに移動する仮想物体は空間と身体を知覚する対象として存在し、空間を歩き周りながら「それ」を探し当てると、手に装着した振動装置により位置や大きさが感知できる。暗闇という視覚を排除された空間で体験するこの作品は、身体と空間のダイアローグ環境を作り出し、2003年NTTインターコミュニケーションセンターの「Nextメディアアートの新世代」展に最年少で出品された。(教授・三上晴子)
「Howlin(ハウリン)」は操作不能で、やっかいな異物とされているハウリングを奏でるための自作楽器である。オシレータやサンプリングといった音源を一切用いず、透明なチューブとアンプの入出力を直結することから生まれるシンプルなハウリング音だけを素材として、周囲の環境とも呼応しながらリアルタイムに音をコントロールする。連続的なハウリング音と、断続的なパルス音との対比が印象的である。(教授・久保田晃弘)
パフォーマーの動きによってコントローラーに対応した音響が変化する。壁とつながれた紐によって、身体による動きが、目に見えるかたちで音響装置とつながっている。身体から発する影響が空間、そしてサウンドを変えてゆく。作者はそれらの要素が、一連のインタラクションによってすべて関係していることをあからさまにした。そうすることで、紐に縛られて本来は不自由なはずのパフォーマーが空間のなかで際だって見えてきた。(准教授・森脇裕之)
大きなウツボのぬいぐるみのなかに、無数の白いウツボがひしめいている。ウツボにくるまれてみたら、気持ちいい体験だった。人の五感のうち触感を重視した作品であるかもしれないが、それ以上にこれほどまでの大量のウツボに圧倒される。個人的にウツボが大好きと宣言する作者は、それをストレートに作品にしてしまった。個人的な事情もある一線を越えたときには、みんなの共有感覚になってゆくことを証明した作品。(准教授・森脇裕之)
3000人から個人を特定する指紋を採取させてもらい、まったく同じ形のハンコを3000個も作った。指紋にしてもハンコにしても、日本社会において特別な役割を持っている制度や慣習に作者は注目した。整然と並べられたハンコの拇体はまったく無機質だが、印字面にはそれぞれの「個」が潜んでいることが理解できる。個人の質と全体の質を同居させ、その対比について深く考えさせられる作品だ。(准教授・森脇裕之)
鉄でできたキネティックの作品といえば、シャープで重苦しい印象があるが、中川さんの作品「Romancer's Machinery」は、その名のとおり古き良き機械を夢想させる。ぎこちない動きやジョイントのきしみ音も、この機械には似つかわしい。足踏みの運動の手ごたえが確実にステンレス球の上昇につながってゆくことに、誰もが充実感をおぼえるだろう。それはなんとなくむかし懐かしいものに出会ったような体験でもある。(准教授・森脇裕之)
この卒制作品は、相対的な視覚と意識の関係性の考察から始まり、記憶が介在 する個人の眼差しと印象についての結論へと到達する。制作の初期段階において近藤はフ レーム(枠)により強調あるいは様式化される視覚認識にこだわり、母親の顔や自室の風景といった日常的な視野のいたるところに赤いフレームを描き写真に納めていた。その後、大小のフレームを空中に吊った野外インスタレーション作品を試みる。そして前後2つの視点が1画面内に構成された映像作品へと到達する。この作品では彼女がよく知る路地を移動する視点から風景の変化が描かれている。前方の視覚が実際に見ている視野であり、 後方へと遠ざかっていく風景は、本人の記憶として意識に描かれるもう1つの知覚の具象化と捉えることができるだろう。(教授・港千尋)
力(パワー)をテーマに制作されたインスタレーション/パフォーマンス作品。ウーハーとトゥイーターから低音と高音のみを放出しながら移動する音響電車、というマッシヴな装置であるが、その背後ではコンピュータによる音響と運動の精密な制御システムが作動しており、さまざまな方面への応用発展も期待できる。(教授・久保田晃弘)
磁気ループをテーマとしたこの作品は、身体が知覚していながら認知不可能な磁気への探求を作品化したもので、自然科学と芸術の脱領域化を図っている。作品は立体作品として宙に吊り、全方向からのアクセスが可能である。現在は、身体の血流データをコンピュータの媒介により数値化し、身体へとフィードバックしていくループシステムを構築、さらなるバージョンアップを進めている。(教授・三上晴子)
機械が進化すると限りなく生物に近くなるといわれるが、逆に人間は機械の精密さにあこがれたりもする。人間と機械は単純に二極化された対立概念では理解できないということを、この作品は示している。観客の頭上で、有機的な機械のゆらぎが観客を迎え入れるこの作品で、もっとも問題となるのは機械と人間との距離感だろう。「巣くう」というタイトルのとおり、彼らは独自の生態系を保持しつつ人間との接触を試みている。この機械生物によって成立する空間は、人間と機械の対峙関係を越えたものを示そうというものだ。(准教授・森脇裕之)
サウンド・メディアの持つ空間性に着目したのは、けっして井上が初めてではない。ライトやサウンドを空間的な素材としてとらえ、自らの手でそれらを思うように操りたいと考えるのは、むしろ自然な気持ちの表れである。井上の作り出したサウンド空間は、半球ドーム内の人々を、強制的にひとつの世界にたたき込む強さがある。しかもそれをつくり出しているのが、井上の手のひらのなかで操られる、もう一つの半球。サウンドと空間の一体感を手のひらのなかから生み出している事実が、この作品の世界観を象徴している。(准教授・森脇裕之)
観客が作品の前に立つと、毛糸の編み物で型どられた世界地図にあるまぶたが、ぱちくりぱちくりとなまめかしく動く。まぶたの奥には樹脂製の目玉が輝いている。目玉は5つあって、それぞれ一つずつ大陸の上にある。とぼけた面白さが伝わってくる作品だ。ナンセンスであるけれど、それはある意味インタラクティブな作品の本質的なあり方でもある。観客と作品との間には、いつもこういった暖かみのある出会いがあって欲しいと思わせる幸せな作品である。(准教授・森脇裕之)
バイクのエンジンを搭載した、二本足の歩行ロボットのプロトタイプ。エンジンアクセルの微妙なコントロールで、のたうつように歩く姿を見ると、思わず感動してしまう。小型のよちよち歩く二足歩行ロボットから始まって徐々に進化して、今回の完成形に到達した。日本の技術力の象徴とされるロボット業界とは全く違う切り口を示すことは、アートに課せられた重要な役割である。しかし、そんな小賢しいメッセージなど、どこかへゆくかのように飄々とした取り組みが逆に、作者の未来に期待させるものとして映るのである。(准教授・森脇裕之)
ぬいぐるみの頭の中をのぞきこんで映像を見るインスタレーション装置。それは過去の記憶の映像であり、本人のコンプレックスを映像で表現することで払拭を試みる。幼児期の象徴である小さなぬいぐるみで構成されたクマにかぶせられたお面は、こころのゆがみを象徴する。鑑賞者はクマの隣に座って抱きかかえるようにして、クマの眼鏡の奥の映像を見ることになる。このような身体的映像装置によって、作者の心の奥底の訴えは多くの人に共有されるものになった。(准教授・森脇裕之)
真摯な眼差しで見知らぬ場所を移動してゆくイメージの連なりは親にはぐれてさまよう子供の頃の記憶を思い起こさせる。写真は本質的に遊民の眼差しであることをきづかせてくれる佳品。(教授・港千尋)
現代の技術革新のめまぐるしい変化を逆手にとって、親密で、繊細な、時間の詩をうみだそうとしている。20年にも及ぶ時間の遠近法を見るものにも感知させる秀作。(教授・港千尋)
頭上に張り巡らされた線の上を紙の襞がゆっくりと蠢きながら這っていく作品。その襞はまるで体内の器官のようでもあり、身体の内部の動きが外部まで拡張したかのようだ。ここで生成される形態は膨張と収縮を繰り返しながら天井を侵食するように堆積する。作品にあてられた光によって床部分にも襞の動く様子が投影され、鑑賞者がそれらの間に入ることによりインスタレーション空間全体も変容していく構成となっている。(教授・三上晴子)
誰もが遊んだ砂場の本来持っている自由な造形の場を、コンピュータによる色彩を加えることで、さらに興味深いものに演出した作品。プロジェクタで砂に投影された画像が、不思議な立体感を持って立ち上がる。コンピュータで描画された色彩、形体と、砂の造形がつくりだす自由な造形のバリエーションに戯れながら、その視覚効果は奥深く、興味つきさせない。子どもにも理解できる、身体的なインターフェースを実現している点が優れている。(准教授・森脇裕之)
われわれの空間を規定する壁のあり方を、積極的にとらえなおした。非常に精緻なコントロールによって、壁に埋め込まれた光の点に動きを与え、数多くのパターンを見せてくれる。なめらかな動きとともに布張りの張力によって、有機的な曲面が立ち上がり消えてゆく。自ら発光するLEDの光と、表面の凹凸が形作る影の動きがあいまって美しい。その様子を見ていると壁面オブジェとして、しなやかな配慮が感じられ、公共空間に向けての提案を意識しているのがうかがえる。(准教授・森脇裕之)
サウンドにあわせてパイプの内部の水流が変化し、光に照らされた渦が生き物のようにくねりながら、さまざまな表情を見せる。水の持つ表情を渦の流れによってうまく表現した作品である。渦を作り出すところに独自のノウハウを確立した。有機的な水のイメージと用意されたサウンドのイメージが重なって感じることができる点が秀逸だ。インテリアに組み込んだり、サウンドオブジェとして、今後の応用の可能性を感じる作品である。(准教授・森脇裕之)
四方が黒く塗られた閉鎖空間の中で、鏡の破片により散乱させられた自分の姿を体験することで、日々のくり返しの中でまとわりついたさまざまなベールを発見し、自分の本質を再認識することを目指した作品。変形させられた自己の姿の断片をアレゴリカルに用いながら、「自分を知る」という普遍的なテーマに対して自己言及的に機能する。(教授・三上晴子)
甲冑を着た操り人形と博士との関係が、人間とマシンのイロニーになっている。ヴァーチャルリアリティを古典的な芸術と対比しているようにも読める、秀逸な本格的3DCG作品である。(教授・原田大三郎)
日常生活の感覚にメディアのセンスを取り入れた佳作。テーブルの上のふたを開ける行為や、聞こえてくるオルゴールの響きによって、身の回りにある何気ないものや、何気ない仕草を取り入れ、あくまで自然な感覚でオルゴールのサウンドを聴かせる。作者の制作姿勢は、この自然感覚であり、それがこの作品の場合無理なく出ていて、観客は思わず手を伸ばし、微笑ませるものとなっている。(准教授・森脇裕之)
ハーフミラーで覆われた2つのタワー状カプセルの中で、観賞者は強烈な光と音を体験する。周囲は見えないが周囲からは見られている、という反転させられた双子の(逆箱男的)環境が、メディアによるプロパガンダという外的要因と人間の記憶という内的要因の狭間、あるいは国家や宗教といった集団と個人の狭間を浮き彫りにする。(教授・久保田晃弘)
木製の機械といえば、からくりを思い出すが、からくりの持つ触感やぬくもりを現代風にアレンジして、新しい木製楽器に仕上げたのが本作品である。作品では木製楽器特有の包み込むような優しい響きを追求しただけではない。もともと楽器はインラタクティブな道具であるが、センサやモータを組み込むことによって、より作品の空間性に重点を置いた結果、新しい楽器のカテゴリーを作り出せたのではないだろうか。(准教授・森脇裕之)